「幸せは不便の中に」 平成25年3月に都市部から島へ・・・
この島は魅力的な環境とは裏腹に、限界集落・少子高齢化の人口減少をリアルに感じる過疎そして離島という生活には様々な「難」が待ち受けていた。
しかしその全てをポジティブに捉えることで、生活に有り余るほどの不便が「実はたくさんの幸せであること」に気がつかせてくれた。

LoVE LoCAL

すきとおった風、青いそら、うつくしい海に浮かぶ高島

 

「幸せは不便の中に」

平成25年3月に長崎市高島町に家族と仲間で移住、この島は魅力的な歴史とは裏腹に、限界集落・少子高齢化の過疎の離島という都市生活者だったものには様々な「難」が待ち受けていた。しかしその不便をポジティブに捉えることにより、生活に有り余るほどのたくさんの幸せを与えてくれていた。幸せは不便の中に存在するんだと。

都市部では働きながら暮らす。ここでは暮らしながら働く。

離島・過疎・少子高齢の島暮らし
(ローカルに関わるニュースやブログリンク・雑感)

地方創生交付金3割超流出 滋賀県支出、県外に

9/2(土) 23:50配信
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170902-00000045-kyt-l25
 
地方創生加速化交付金で県が制作したホームページ「滋賀区」。
東京都内の広告代理店が手がけた
 滋賀県が、国の「地方創生加速化交付金」を受けて2016年度に実施した事業で、事業費総額の3分の1以上が県外の企業や団体に支出されていた。
発信力やノウハウの不足で、都市部の力に頼らざるを得ない実情が浮かぶ一方、県内への経済効果が損なわれることや、継続的な取り組みにつながらない懸念も指摘されている。
 おしゃれなダイニングカフェに、高級そうなビストロ。
 
滋賀県が今年3月に開設したホームページ「滋賀区」には、東京都内にある滋賀ゆかりの29店舗などが紹介されていた。「首都圏住民が滋賀に興味を持つきっかけづくりに」と、加速化交付金を活用。県は店舗情報の収集に780万円、サイト制作に180万円を充て、PRイベントなどを含め計3400万円を委託先の電通(本社・東京都)に支払った。
 地方創生関連の交付金は、当初「地方へのばらまき」との批判もあった。だが、県が昨年度に加速化交付金で実施した全12事業の総事業費6億8600万円のうち、確認できただけで2億3400万円を県外の企業などへ支出していた。そのうち1億4500万円は東京都内の企業だ。

 都内の企業が受託した主な事業は、別の観光推進事業で電通が4400万円
▽成長産業の発掘・育成事業でコンサル企業に1500万円
▽高齢者が移住して暮らしやすいまちづくりの調査や資料作成でシンクタンクに1千万円▽高度人材の獲得イベント開催で転職支援企業に660万円-など。「東京一極集中の打破」が地方創生とセットで語られる中、少なからぬ交付金が地方を素通りして東京へ環流していたことになる。

 県幹部は「当初から、できるだけ滋賀県にお金が回るように指示をしていた」と説明する。だが、提案型入札をすると、企画力などで大都市圏の企業が評価で勝ることが多かった。また、滋賀のブランド向上には首都圏で存在感を高める必要があり、イベントや広告出稿は現地の企業に依頼する方が合理的だった。県内の業者を下請けにするケースもあったが、「やむを得ない面もあった」のが実情だという。

 ただ、県議会からは疑問の声もある。木沢成人県議は「安易に大手に頼り過ぎている」と指摘。
「県民全体で一斉にSNSで発信するなどコストをかけずに同等の効果が得られる代替案はいくらでもある」とし、「自立というなら、もっと地方がクリエーティブにならなければ」と発想の転換を促す。

 目片信悟県議は「全部は無理でも、県内の企業が組めばできることもある。県内にノウハウが蓄積しなければ継続した活性化にはつながらない」と指摘。「地方創生で本当に必要なのは、地方が助け合って自立していくことなのではないのか」と首都圏頼みの姿勢に疑問を呈した。

 今回の地方創生は、地方にも努力を求めたのが特色だ。地方の独力にこだわる必要はないが、行政だけの努力ではなく、県民が知恵や資源を結集できる仕組みも求められているのでないか。

かつて憧れの高級住宅街の末路

 都市部の陸の孤島化が始まっている。

昭和50年代に造成された丘陵地の分譲住宅は、1区画100坪、坪100万円超、建物含めて1億5,000万円で分譲。上場会社の役員、芸術家などが多く住み、テレビドラマや映画の舞台にもなって、憧れの住宅地でした。
それが今、空き家だらけになってしまっているといいます。
 
売却しようにも現在の地価は坪30万円、更地にして売却しても2,000万円台の価格しかつきません。親が亡くなり、子供が相続しても、最高値の時期を知っていると、そんな低価格では売る気になれず、いずれ、値上がりするかも…とそのまま放置された空き家が立ち並んでいます。
また、別の海を見下す高台にある当時の高級住宅地は、40年が経過し、入居者のほとんどが既に超高齢。憧れだった坂の上の家に向かう道は、高齢の身には障害にしかならず、マンションや施設に移る人が増えているといいます。
団地内の商店は全て閉店し、唯一の交通手段であるバスも、空き家の進行とともに、ダイヤ改正の度に本数が減っていき、車の運転をしなくなった高齢者にとっては、陸の孤島だといいます。
 
こういった郊外型の高級住宅地は、世帯主の年収が高く、家には専業主婦の奥さんがいて、家を守っているというパターンが多かったのです。
毎朝、夫を車で駅まで送り、学校や習い事の子供たちの送り迎え、最後、深夜近くに帰る夫のお迎えと、1日中、運転手よ~と言いながらそれはそれで幸せそうでしたが、女性も仕事を持つのが当たり前になった今の時代には合いません。
価格が下がっても、ここをあえて購入しようという方の生活パターンが見えないというのが現状です。
知人は、「自分の子供たちだって、不便過ぎてここには住みたくないっていうんだから、仕方がないわよ~。でも、ここを売れば、かなりいい老人ホームに入居するぐらいの資金には困らないはずだったのに。
それでも、お正月には、家族が集まれる実家としてのこの家を、できるだけ守っていくけど、後のことは子供たちが好きにすればいい」…と。
 

都市の空き家問題は田舎とは別の意味で深刻です。

特に、環境のよい高級住宅地として分譲されたところは、他に転用がききません。
空き家の活用として、様々なアイディア出され、モデル的な取り組みがされますが、根本的な解決策にはならないと思います。
人口が40年後には、今の7割まで減少するというあまりに大きく避けられない現実の前に、過剰に存在する住宅の活用方法の妙案などないのです。
 
そして、人口減少に伴い、女性も高齢者も皆が働いて社会を支えなければならない時代に、専業主婦が家にいることが前提で価値を持っていた郊外型の高級住宅地は、一番難しい現実に直面していると言えます。
 
記事元:MAG2NEWS

「若者に活躍してほしい」は、ほとんど口だけ

 

木下 斉 :まちビジネス事業家 2017年03月15日

 
地方が衰退するのは、当たり前。「若者に活躍してほしい」 と言いながら、口だけに終わっているからだ。
前回の記事「地方は儲からない『イベント地獄』で疲弊する」では、地方がいたずらに「やることばかり」を増加させ、「やめること」を意思決定できない無能なマネジメントによって衰退している話を解説しました。今回は、地方では人手不足などといいながら、多くの組織で有能な若い人材を排除し、自ら衰退を招いている構造について触れたいと思います。
 

地方の「上の世代」は若者を積極的に受け入れていない

そもそも「地方から若者がいなくなる」などということは、新しくも何ともありません。
若者がいなくなる原因については、「大学も含めて、東京にはさまざまな機能が集中しているから」「地方は相対的にインフラが貧弱で不便だから」「経済力が劣っており金融面でも不利」など、構造的な要因がいくつもあります。
しかし、それだけではないのです。従来、地方を担ってきた上の世代が、若者を積極的に受け入れてきたのかといえば、そんなことはありません。
自分たちの言うことを聞かない若者、自分たちの理解できない感性をもっている若者をないがしろにし、多様性を排除してきた結果、地域のさまざまな組織が社会変化に対応できなくなり、衰退が加速している側面が強くあります。全国でまちの再生に携わっていると、たとえば商店街の重鎮などが「いやー、うちのまちは閉鎖的で」などと、自虐的に話しかけてきたりします。

ダメなところほど、若くて有望な人材を使えない

しかしながら、私はかれこれ20年近く、さまざまな地域の再生にかかわっているからわかるのですが、閉鎖的でない地域など、見たことがありません。全国津々浦々の人が何気なしに「うちのまちは閉鎖的だから……」と言うとき、それは「閉鎖的なことはその地方の伝統的なもの」であり、「排除している自分たちには直接的な責任はない」と肯定しようとしているにすぎないと私は思っています。
何よりも重要なのは、排他的な地域をこれから変えられるか否かは、「今そこにいる人達次第」ということです。もし過去からの流れをまったく変えずに、力のある若者を排除していくと、その地域の未来に必要な「リーダーシップ人材」「サポート人材」「イノベーション人材」の3つを失っていくことになります。一つひとつみていきましょう。

「うちのまちには”いい若者”がいない」は、ウソ

まずは、「リーダーシップ人材」です。全国各地で、地元のさまざまな組織の上役は、口をそろえてよくこう言います。「いやー、うちのまちには”いい若者”がいなくて……」と。しかしながら、本当にそうかと言われれば、大抵の場合は間違っています。
とある、残念な地方都市の商店街に行った時のことです。「若い世代に世代交代したいが、いい若者がいない」と例のごとく言われる年配の会長さんがいらっしゃいました。「いやー、そんなことはないでしょう。ほら、地元に〇〇〇〇さんという、魅力的な居酒屋を全国区で展開している人がいるじゃないですか! 彼みたいな商売上手な人に、次の世代の商店街を担ってもらえればベストですよ」とお話すると、「アイツは俺の話を聞かない。商店街の活動にも消極的だからダメだ」と言うのです。
そりゃあ、衰退する商店街の事業なんて、大抵は駄目な取り組みばかりで、賢い事業者ほど、かかわりません。成果の出ない取り組みを延々と繰り返しているわけですから、全国区の居酒屋のトップが、そんな人の話を聞かないのも当然です。

上から目線の「若者は我慢が足りない」はあまりに傲慢

「地元で人気のお店を経営している」ということは、「何が地元で求められているのか」を掘り起こすマーケット感覚に優れている証拠です。さらに「多数のスタッフを雇えている」ということは、マネジメント能力に長けているということです。そのような若くて有望な人材に重要な役割や立場を与えずして、どうしてその地域が発展するのでしょうか。
結局、上役たちが欲しいのは「地方に必要な、いい若者」ではなく、自分たちにとっての「都合のいい若者」なわけです。上役の好き嫌いではなく、有能である人材を認め、役割を渡せるかどうかが、地方の未来を分けていきます。

「若者は『キツい仕事』を安く引き受けて当然」は傲慢

次に「サポート人材」です。若者に、自分たちにできないことを頼むときの「頼み方」にも大きな問題があるのです。結果として、サポート人材を失っているケースが多々あります。
よく「地方活性化のために、若者のアイデアと行動力に期待したい」と言いながら、実際は自分たちがやりたくないことを押し付け、若者に支払う報酬は自分たちよりも低く設定するのに何の躊躇もなかったりします。
さらに、せっかく手を挙げてきた若者たちに「期待ほどではなかった」などと、「上から目線」で批判的な評価を平気で下したりします。そんなことをしているうちに、本当に誰も来なくなります。
私が20代のころ、とある地方経営者が集まる会議において、「最近の若者は我慢が足りない」と経営者の方々が盛り上がる現場に出くわしたことがあります。そのとき、私は「従業員の我慢が足りないのではなく、むしろ従業員に不当な処遇をしているのではないですか? この場所に『従業員の我慢に頼らない経営』を考える人はいないのですか?」と言って、場がシーンと静まり返ったのを思い出します。
地方の経営者たちがこんな考え方では、地方に必要な業務を遂行してくれる人材層は、より恵まれた機会を求めて、別の都市へと移動していくわけです。

「年齢が若いだけの保守的な人」が残ったら、もうおしまい

自分にできないことは年齢にかかわらず、むしろ「自分たちより高い報酬を支払ってでもやってもらう」という覚悟なくして、地方に良い人材が集まることはありません。

若者の感性を完全否定したら、そのまちは「おしまい」

さらに、3つ目は「イノベーション人材」の喪失です。若者が特段の迷惑をかけていないことでさえも、自分たちに理解できないことは、頭ごなしで「ダメだ」「劣化している」と決めつけがちです。匿名性の低い地方においては、そのような圧力によって、新たな芽がつぶされてしまう危険性があります。
たとえば、北九州市の成人式などはマスコミによって、「変な格好しているヤンキー」くらいに報道されたりして、つぶされそうになったことがあります。しかし、実際には地元でまじめに働く若者たちが何十万円もかけて衣装を作ったり、レンタル衣装を借りて、自分たちの文化として発信しているのです。そもそも、それだけのおカネを持っているということは、しっかりと働き、さらに計画的に預金を積み立てているからこそ、できることです。北九州市の知人によれば最近では「同じような衣装を着て写真を撮りたい」とわざわざ北九州市に来る人さえいるそうです。
 
このごろはよく「イノベーション人材を地方へ!」などという話で盛り上がりますが、そもそもイノベーションとは、従来のサービスや構造が、新しいものに置き換わることを意味します。自分たちに理解できない若者文化などを攻撃し、排除してしまっては、イノベーションもへったくれもありません。自分が理解できないことを否定しないことが、地方でイノベーションを起こす第一歩なのです。
もし、いま挙げたような「3つの人材」を排除していくと、結果として地方には上役の言いなりになる、「年齢こそ若いものの考え方は保守的で硬直的な人たち」が残っていきます。その結果、どうなるかは言うまでもありません。
 
今、実権を握る人はまずは役職を降り、若者に意思決定を委ね、事業報酬などはフェアに転換することが大切です。たとえば、宮城県女川町は、2011年の東日本大震災を契機に、官民のさまざまな組織で、意思決定を若い世代に委ねました。私も女川は被災前から知る地域だったため、その転換が被災後のまちづくりに大きな影響を与えるのを目の当たりにしました。過去の閉鎖性を未来につなげず、むしろ今の世代で大きく転換を果たし、若い人材に機会を与えることが求められています。

(地方の働き手不足の原因は人口減少ではない)


木下 斉 :まちビジネス事業家
2016年12月31日


今回は「地方では働き手が不足している」という、誰もが知っている常識の奥に潜む「深刻な構造問題」にスポットライトを当てたいと思います。
こう書くと「日本の総人口が減っているのだから、地方はなおさら」と言われるかもしれません。しかし、話はそう簡単ではありません。
生産年齢人口減少のスピード>総人口の減少スピード 
 

そもそも、人口の話をする場合、総人口の問題もさることながら、むしろ「稼いで、消費したり、納税して経済と財政を支えていく「生産年齢人口(15歳以上65歳未満の層)が減少する」ことの方が、実際には大きな問題を生みます。稼ぐ人が減少し、社会保障が必要になる=財政負担が必要な世代が増加していく、という事態になるからです。 
 
大枠の数字を具体的に見てみましょう。2010年の国勢調査では約8100万人いた生産年齢人口が、2030年には1400万人も減少、約6700万人になると社会保障・人口問題研究所が予想しています。一方で同時期に減少する総人口は約1200万人。つまり総人口の減少スピードよりも、生産年齢人口の減少スピードの方が早いのです。
 
そのため、すでに地方では大都市よりも「働き手」不足の問題が深刻になっています。今は地方にも仕事はあるのですが、それを担う人がもはやいない状態なのです。それでは地方はどうすればいいのでしょうか。
 
論理的に言えば「働き手が不足する中で経済力を維持、拡大するためには生産性=1人あたり生産力の向上」が必要かつ有効、となるわけです。具体的には、従来の非効率な作業方法を見直したり、設備投資で少数でも生産力を拡大することなどが重要です。少ない人手でも多くの生産力を生み出せるようになれば、働く人の報酬も高めることができます。

低生産性労働を強いる経営者が地方を衰退させる

しかし、物事は論理的には動きません。変化にはスイッチングコストがかかるため、短期的な変化へのコストを支払わずに、「どうにか今までやってきたこと(過去)を続けられないか」と考える経営者が大半です。その結果、従来型の低生産性構造の産業を維持したまま、足りなくなった「働き手」を探すことになっているのです。


よく地方では「働き手不足」という言葉が出るのですが、それは別に人口減少だけが原因ではなく、明確な問題があるのです。それは、地方における既存産業で求められる労働自体が「低賃金・長時間労働」であったり、血縁・血縁を基礎とした付き合いなどを理由に、「女性や子供たちは無賃金労働するのが当たり前」、といったものだったりするからです。
人手不足なのに、経営者たちがプロセス改善や設備投資と向き合わず、昔からの非効率な業務のまま、過剰労働の担い手を探し続け、さらに地域を衰退させてしまう負のスパイラルが発生しています。
 
「外国人研修制度」は「地方の当座しのぎ」に過ぎない
かつては学生や訳ありの若者の期間限定バイトなどで補えた時もありました。しかしそうした労働は、近年では日本人の若者からは見向きもされなくなりました。そこまでくれば、「今度こそ変革を!」と思うところです。しかし、そうならずに、次は「外国人を活用すれば良い」となってしまいました。その一つが、近年大きな問題になっている「外国人技能実習生制度」です。
 
2014年には東京入国管理局から外国人農業技能実習生の受け入れ停止処分を受け、一部の協同組合が解散にまで及んだ長野県川上村の事例が世間を賑わせました。年収1000万円以上の農業世帯が当たり前の「豊かな農業の村」として全国的に注目されている同村ですが、外国人実習生に過酷な長時間労働などをさせていた実態が明らかになりました。
 
同村では日本人の人口減少が続き、外国人を除いた高齢化率は30%に達し、衰退は続いています。5000人弱の同村の人口のうち850人程度、つまり住民の2割弱が外国人実習生となっています(2015年の同村資料による)。もはや外国人実習生がいなければ、村そのものが成立しないといっても過言ではないレベルです。
 
もちろん外国人実習生は同村だけでなく、全国で約16万人に上ります。その出身国は、これまで全体の多くを占めていた中国が減少に転じ、ベトナム、フィリピン、インドネシアへと出身国が変化しています。
 
しかも、2015年度には実習生のうち、行方不明者が3139人(2014年度、公益財団法人国際研修協力機構)に達しています。「割に合わない働き手」探しが、日本人から中国人にシフトし、さらに次なる国の若者たちへと矛先が向いているとすれば、頭を抱えます。途上国の人材育成も目的にしているとはいえ、当座が回っていればそれで良い。そのような地域に、明るい未来があるとは思えません。
 
既存の低付加価値で生産性の低いシステムに人材を集めようとするのでは、未来はありません。過去の常識や伝統を変えていく新たな付加価値の高いビジネス、生産性の高い仕事の仕方こそが、新たな人材を健全なカタチで地方に集め、その地域の課題克服に向けて風穴を開ける一手になります。
 
地方において今後必要なのは、しっかりと新たな市場と見据えて、高付加価値の産業構造へ変化していくような新たな事業家の存在です。過去の非効率な産業を展開する経営者たちを政策的に支えるようなことは、地域のひずみを拡大させ、結果的には衰退を加速させます。
 
新たな成長分野に地域産業も転換していくことは、短期的には痛みを伴うため、既存の経営者達が反対します。しかし、非効率な事業を続けようとする経営者達の既得権を政治的に守っても、働き手も、地域も、結果として日本社会そのものも守れません。ビジョンある地域の事業家たちの取り組みにこそ、人口減少社会における地方の光があります。

大曽根商店街(オズモール)と大須商店街の比較。再開発を選んだオズモールが失敗し、選ばなかった大須商店街が活性化した事例についての@voidandformさんのつぶやきまとめ。
2016.10/24

STANDS ARCHITECTS横関浩 @voidandform
名古屋にはさびれた商店街の活性化について必ず引き合いに出される二つの商店街がある。
大曽根商店街(オズモール)と大須商店街の二つ。
もちろん規模が大須の方がはるかに大きく長さで言えば5倍程度ある。


また、名古屋の中心街に大須の方が近い、地下鉄など交通の便が良いなど、大須の方が地理的に有利な点は多い。そのため潜在的な集客力が圧倒的に違う事は、この二つを考える際に頭に入れておく必要がある。

両方とも活性化のために再開発計画が作られ、大須は様々な理由で実施されず、大曽根(以下オズモール)は実施された。さて、現状はどうなっているかと言うと、再開発がされなかった大須は、奇跡の復活と言われるほどの活性化が起き、オズモールはかけた費用ほどの集客効果が現れなかった。
 
もちろん、オズモールは全ての建物が建て替えられたため、防災上は非常に優れたものになっている点では、大きな効果があったとは言えるが。
オズモールの再開発計画は、古い商店街を立て替えるものだ。
通りの入り口には大きな彫像のゲートが造られ、通りには小川のせせらぎを感じるような水を流されている。また、商店街の特色を生み出すために、通り沿いの建物には必ず三角屋根を載せると言う景観規制が実施された。

中華街のようなゲートと言うアイコンの設置、小川のせせらぎと言う憩いの場の創出、三角屋根の建物群と言う空間演出。どれも分かりやすく絵に描きやすい王道的なピースだ。しかしそれらのピースが集まって出来た商店街は、表層的な印象を強く与えるものとなっている。
また、これらの3大要素は突然現れた感がある。
旧商店街とどういう繋がりがあるのか、それを見ただけでは分からず、時間としての厚みを感じない。
もちろん歴史的な繋がりが必要と言うわけではないが、何か理由がないと持たない感じではある。
この背景には、オズモールがもともと持つべき地域性を、計画段階に、一般の人に説明する上で、誰もが共有出来るステレオタイプのイメージで駆逐したと言うのが、もっとも分かりやすい流れだ。

再開発は一設計者が全てをしきれるほど単純ではなく、様々な利権、もくろみ、経済、人間関、法規などが絡み合い、往々にしてデザインなどと言うのは、トッピングみたいなものとなってしまう。

 
では、集客力がなぜ増さなかったのか?
私が思うに、以下の点が大きかったように思う。
1,商店街において表層的なデザインは、それほどお客を集めない。
(三角屋根になったと言って人が集まったりはしない。)
2,お客のためを考え作られた空間は、それほどお客を集めない。

 
結局のところ、
1,コンテンツ 
2,アクセス 
3,潜在的客人口 が商店街の基本的な「性能」であり、この性能をフルに活かす「技術」は、そこに店を構える店主たちしか持つ事が出来ない。

 
そのため、再開発におけるデザインと言うのは、この性能と技術に対して最も大きくエネルギー投下するのが正しい。

「性能と技術」その延長線に、様々なデザインが存在すればリアリティが増すことになる。
そして、ここまでの考えを元に、商店街のデザイン評価基準を作る事が出来る。

 
話が右往左往して申し訳ないが、頭に浮かんだ事をどんどん書き留めているのでご容赦を。

 
商店街のデザイン構造を図で考えると、一番底辺に「技術」である店主達があり、その上に「性能」である1,コンテンツ 2,アクセス 3,潜在的客人口がひとくくりに乗っかる。
これらをデザインの枠が囲み、その上に対象客の群が乗っかっている。

 
商店街の再開発において店主(店子)がいかに重要かはこの構造があるためだが、商店街のデザインはなかなかそうはなっていない。オズモールの当初の失敗はそこが上手くリンクしていなかったからではないかと思う。ただし、商店街は生き物なので、オズモールが未来永劫失敗と言うわけではない。

 
では、最も重要な店主のためのデザインとは何か?
簡単に言えば、時間が経過しても、そこで店を出したいと言う思いが生まれるための状況作りの事。オズモールはそもそも店主=地主と言うパターンが多いため、この部分が希薄になった可能性もある。

お客が来たいと思うためのデザイン・状況作りよりも、店主が店を出したいと思うデザイン・状況作りの方を優先する事を忘れてはいけない。

 
そこがうまくいけば、自然と店主達が自ら頑張って、商店街を活性化させていくことになる。逆に店主達がその意欲を無くした時が寂れていく速度を加速させる。

 
次に大須の例だが、こちらは面白い経緯を辿ったパターンだ。大須は一時かなり廃れていた。シャッターが閉まっている店が多く、人通りもそれほど多くない。再開発の話しがいくつも出たようだが結局実現されなかった。
 
廃虚のような場所も出始め、住む人の高齢化が進み、徐々に維持が難しいくなりそうな物件も増え始めていたが、ある時を起点に町が変貌を始める。
それは店の持ち主が様々な理由で店を閉じ、そこを安く若者に貸し始めたのがきっかけ。
 
きっと背に腹は変えられなかったか、小遣い稼ぎのつもりだったか、投資だったかはよく分からないが、古着やストリート系のファッションの流行に乗り、その手の店が増えて行く事になる。
若い人たちは、お金がないため、お店も基本が手作り。
 
これが大須商店街のある意味古さと妙な共振を起こすことになる。何かこう、店主と客を取り巻くスケール感や質感が共通していると言うか。そこでは旧と新が不思議な一体感となって存在している。

 
その雰囲気、コストの安さは店主にとってもお客にとっても全く一致しているため、人も集まり始めその後爆発的な大須の活性化が始まる。
そのうち家賃も上がり、大須でお店を開くのがステータスにさえなってしまった。

この自然発生的な活性化例は、再開発に関わる設計者に痛烈なインパクトを与える事になる。

 
ネットヘッズ! @net_heads 2010-01-07 11:05:13
そういや昨日@voidandform氏が大須の事例をつぶやいていたけど、もう1サイクルした時にどうなるのかを見守りたい。これから特建者の入札が始まる某再開発では、似たような流れを辿ったが、結局再開発となってしまった。

 
入札がこれからなので具体名は取り敢えず伏せるけど(そのうち名前が出る)、駅前にGMSがある典型的な私鉄沿線の駅前商店街で、薄暗いアーケードとシャッター街で文字通り廃墟に近い状態だった。地元の商工会もなんとか活性化を考え、高円寺みたいにしたいと安い賃料で若者向けに貸すことになった。
 
昭和な雰囲気に古着屋とかバーとか受けると思って幾つかテナントが入ったが、元々公営ギャンブルに近い上、昼間から居酒屋が開いているような土地柄のため、とても若者が立ち寄るような雰囲気ではなく、その手のお店は直ぐに撤退してしまった。
 
その代わりに入ってきたのが、駅前のパチンコ屋が仲介して入ってきた中韓の風俗店だった。格安の風俗街として雑誌でも特集された。お陰で治安が最悪となり、地権者もこれではヤバイと思ったのか、それらのテナントを排除し、これまで何度も立ち消えになった再開発組合をようやく発足させた。

 
こういう地元活性化的な手法で痛い目にあった再開発組合というのは、どうしても「汚物は消毒だ~~~ッ」的な発想になる。
コンサルしてる事務所が描いた絵は、駅舎の改築に伴って駅前のGMSを大型商業化、その隣には超高層マンションという典型的なパターンに陥っている。
 
ちょうど今大須について@voidandform氏がつぶやいているので、並べてみると辿った運命の違いが如実に分かる。原因はいろいろあるだろうが、テナント入替の一連のサイクルを間違えるとまるで違った結果になってしまう。これは廃墟化しているSCにも同じ現象が起きている。


STANDS ARCHITECTS横関浩 @voidandform 2010-01-07 11:20:12

大須の活性化は他にも応用出来る部分と不可能な部分がある。特に地理的、歴史的、客人口的な部分を安易に解釈すると、失敗する。
 
商店街などが廃れていくと言うのは、様々な要因でその場所に対する潜在的な客人口が減少した場合が多い。この減少には手が打てないものもある。
 
そうなると商店街の規模をその客人口に合わせて縮小させなくては、過剰性能を持つ事になる。

様々な活性化策で、商店街の中に、その商店街にこれまでにない職種のお店やオフィスを入れて空きを埋めようとするのは、その過剰性能を適当なレベルまで抑えるための真っ当な方法と言える。

大須の場合、この性能のスリム化が衰退と言う形で実現されたと言っていい。衰退に伴い生まれた安くて自分たちで手を入れられるコンパクトな余剰空間が次のステップの目を生み出すと言う形だ。
活性化される場所は大なり小なり、入れ替わると言う現象、生き物で言うと代謝のような事が起きる。これは厳しい現実で、いつまでも同じ店がづっと続くと言う事が代謝を阻害し、活性化を鈍らすと言う事を意味している。
 
昨日書いたが、店主がそこで店を出したいと思えるような状況作りこそ、活性化の最重要事項であるなら、店が変わらないような場所では、結局そう言う気持ちは湧かない。
これは問題と言える。

同時に商店街がその地に根ざしたものであるとしたいなら、いつものお店がいつものように続いて欲しいとも願うのも事実。
 
昔から馴染んだ店が無くなると言うのは実際寂しい。

活性化を計る際、続いているお店と消えていくお店、そして新しく入ってくるお店の比率がひとつの指標になる。それと先ほど書いた、商店街の性能と潜在的客人口の比較も指標になるだろう。
 
大須は非常に多くのお店がかなりの勢いで消えていく。
小さな商店街では考えられない代謝が起きている。部分的なエリアを見ると、これまでの職種とは違ったものに置き換わってしなった場所もある。
厳しい生存競争のよう。

 
ここに今の大須の特徴がある。激しい代謝があり、その代謝が比較的小さな規模のお店の入れ替わりで構成されている事。これは面白い。生物学的に考えれば、小さなものほど代謝のサイクルが短かく、大きなものほど代謝のサイクルは長い。
 
ただこれを、店の規模と一緒に考えるのは間違い。商店街で馴染んだ店が無くなると言うのが寂しいと感じるのは店の大小ではない。規模が「量」なら、その店に関わる人たちにとって意味、つまり「質」としての大きさがある。
 
なので、規模(量)が大きくても、内容(質)が小さければ、サイクルが早い可能性はある。
大型店舗が早々に撤退するような場合はこれにあたる。
規模(量)が小さくても、内容(質)が大きければ、非常に長いサイクルでの維持は可能。
 
大須が再開発されなかったために、このサイクルの違い、つまり古いもの新しいものの歴史が、見た目でも併存すると言う状態になったのは、非常に興味深い。オズモールでは一斉に再開発がされたため、このサイクルが一度リセットされてしまった。
 
オズモールにも歴史はあったのだろうが、再開発されたオズモールは、再開発以降に歴史が始まったとしか見た目には判断のしようがない。
もちろん、そこから新たな歴史を作ればいいわけで間違いとは言えないが、一時的に厚みを失うのはもったいないとは言える。
 
内容が飛びまくりで申し訳ない。
ここまで書いてきて、気付かれた方もいるかもしれないが、商店街の活性化はどれぐらい必要か、それぞれの商店街で設定する必要がある。無駄に活性化させても失敗するのが落ち。余分な費用をかけるだけになりかねない。
 
オズモールは大きな活性化を計る必要がない商店街だったと私は考えている。
現状の潜在的な客人口を考えれば、激しい代謝を起こす必要性もなく、もともとの建物の立て替えであるので、お店を持ちたい人たちにアピールする必要もない。
 
防災上の強度をあげる事が出来て、使いやすく、そこそこ明るくきれいになれば良いと言う状況だったと、感じる。そう言う状況に提案されたのが、三角屋根、小川、ゲートだったのだろう。
実はこれは決して悪い事ではない。
スタート地点でオズモールは真の意味での活性化をそれほど必要としていなかったからだ。
再開発に関わった人たちもそこはきちんと理解していたと私は思う。
 
開発側はきちんとその最低の水準はクリアしている。
問題はその再開発が「大きな活性化を目指していた」と表面上見えてしまう事であり、それ相応のお金が投下されたと思える事。ここに過剰さが発生してしまっている。
 
この話をどうまとめるべきか、まとめないで書きっぱなしにするか悩むところだが、このまま書いていくと延々と続きそうなので、ここで少し設計側の立場からの考えを書いて一区切りに。
 
大須は今非常に活性化している。それゆえ、この成功が足かせとなり、今後保守的な方向に進む懸念があり、将来また廃れていく可能性がある。その時再開発の波がやって来る。
そのとき慌てて大規模再開発するよりも、大須の持つ特徴、「小さな単位での躍動的な変化」を維持出来る構造を、確固たるものにする、小さな改修を行うべきだと考える。今のままで良いではないかと思うかもしれないが、次の改修時期と言うのは、建物がもう物理的に持たない可能性が高いため、強制的に立て替えが発生する。
その時に大須の持つ代謝性が失われる可能性が高い。
私ならそこを守るべきだと思う。
 
商店街のお店の入れ替えが部分的に発生していくように、町の構造も部物的に刷新させるのが大須流と言えるはずだ。そのためには共通する最低限の約束だけを作り、それ以外は自由にできるような環境が必要。
 
共通する最低限の約束とは、建物の建て方のような具体的な規則でもあるが、やはり大須流とは何かと言うポリシーみたいなものと言った方が良いだろう。それがある程度守られれば特色が維持されつつ、次へ繋げる事が出来る。
 
オズモールは少々過剰なイメージがあるので、現状をに馴染ませるような工夫をそこの人たちがしてくだけでかなり良くなっていくと私は考える。せっかく広い通りがあるのだから、これを活かさない手はない。
もっとお店がはみ出したりして、個性を出す事で、単調な通りに凹凸をつけると雰囲気は変わってくるだろう。それで真ん中の小川が邪魔になれば、その時はばっさりと小川を無くしても構わない。
そうやって店主達がまち作りを楽しみ始めると、間違いなく人は集まってくる。
 
このはみ出すと言う行為は、新しい貸与空間を生み出す可能性があり、そこにまた入りたい人が現れ、店主人口が増え、更に活性化が進む事もあり得る。そしてその部分をまず代謝しやすい状況に持っていく。
現状の資産に対して、呼び水を打つ形がオズモールを、魅力ある場所へ変えもっとも良い方法だ。魅力が増せば活性化はその後に必ず訪れる。
さて、twitterで二つの商店街に関する個人的な意見を、思いつくままに書いてみたのだがどうだっただろうか?合っているところもあれば、間違っているところもあると思う。
意見や感想などが知りたいので、気軽にツイートしていただければ幸いです。
 
再開発が悪いわけではないのですが、方法や費用対効果で問題の場合がありますね。@net_heads もう1サイクルした時にどうなるのかを見守りたい。
これから特建者の入札が始まる某再開発では、似たような流れを辿ったが、結局再開発となってしまった。ありがとうございます。
 
@net_headsさんと並列させると非常に面白い!それで内容は問題ないのですが、ちょっとだけお願いが...。RT @lhankor_mhy とても面白い内容だったので、http://togetter.com/li/2769 に勝手ながらまとめました。
 
.@lhankor_mhy 題名をちょっと変えてもらおうかなと思ったのですが、やっぱりこのまま様子を見ます。商店街の人たちに罪はないでしょうから、失敗と言われるのは不快かなと思って気にはなるのですが...。

失敗と言うのは開発側に強く認識してもらいたいですね。

2016.02/15

「なぜみんな本音を言わないの?」
それで失うものは、大したものではない

堀江 貴文 :実業家
2015年12月22日

いつでも「本音」で語る堀江貴文氏の生き方とは?

職場でも友人同士でも、なかなか「本音が言えない」という人も多いだろう。
一方、テレビでもどこでも「本音」で語るのが、先日『本音で生きる』(SBクリエイティブ)を刊行した堀江貴文氏だ。いつでも「本音」で語り、やりたいことをすごい勢いで成し遂げてきたホリエモン氏に、その生き方について聞いた。

「上司の言うことは理不尽! でも、そのことを言えないでいる」

「会議でも意見が言いづらい雰囲気……。雰囲気にのまれて、いつも何も言えない」
「下手なことを言うと、上司から嫌われて職を失ってしまう」
「本音を言うと人間関係が悪くなって、職場にいられなくなってしまう」
こんな話を聞くことがある。多かれ少なかれ「言えない本音」を持ちながら仕事をしている人は少なくないようだが、僕はまったく信じられない。むしろ、「なんで? 言っちゃえばいいのに!」と、心底不思議に思う。

「本音」を言われて困るのは、上司のほう

まず、1点として、本音を言われて困るのは、実は上司のほうなのだ
「上司への文句」がその上の上司に伝わろうものなら、マネジメント能力がないと思われたり、部下から信頼されていないとされてしまう。さらに、昨今、SNSなどで何か言われたら、それこそ自分が危ういという計算もあるだろう。
だから、上司の言うことが理不尽であれば、何が理不尽なのかをきちんと指摘するべきなのだ。世間体を気にする上司なら、逆に丁寧に話を聞く姿勢を見せるかもしれない。それに、「言いたいことを言ったから」という理由で解雇することなど、今の日本の会社では非常に難しいのだ。

「ワンピース」ではなく「島耕作」的な関係

本音を言うと「人間関係が悪くなる」と思っている人もいるかもしれない。しかし、職場になじんでいようが、浮いていようが、仕事の結果には何の関係もない。同僚に陰口を叩かれるというのなら、相手に面と向かって「陰口を言わないでください」ときちんと言えばよいだけの話だ。

それであなたがやるべき仕事にどんな実害が及ぶのだろうか。

仕事で望ましいのは「セミドライ」な関係
 
当然のようだが、職場で大事なのは、やるべき仕事をやることだ。
僕にとって、仕事で望ましいのは、「セミドライ」な関係だ。仕事として相手には尽くすけれど、互いに寄りかからない距離がいちばんいい。
マンガでいえば、「ワンピース」的なものではなく、どちらかというと「島耕作」的なもの。
「ワンピース」では、「あいつは仲間だから」というだけの理由で、落ち込んでやる気を失った仲間にいつまでも構い続ける。しかし、仕事は、自立した個人が、目的を達成するためにつながって行なうものだ。慣れ合いではなく、目的を達成するために与え合う。そうしたベタベタしない少しドライな関係が僕にとっては気持ちがいい。
それから、日本人はとにかく議論を避けて、「意見」を同じにしたがる。僕はこれまでにさまざまな人と対談してきた。なかには、議論がまったくかみ合わなかった人もいる。でも、だからといって、相手を嫌いになることはないし、尊敬の念が減るわけでもない。
しかし、「お互いの価値観が異なっていることがわかる」というのは、とても大事なことだ。
なんとなくわかったふりをして議論が終わるのと、たとえ自分の価値観と違っていても、しっかり相手の意見を聞くのとでは、どちらが「相手のことを知る」ことになるだろうか。
たとえまともな議論にならず、ケンカになっただけだとしても、人と議論することが無意味だとは思わない。僕は、意見が一致しないからという理由でその人のことを嫌いになったりはしない。意見が一致しないことと、相手のことを嫌うということは、そもそも、まったく別のことだ。
だから僕は、対談だけでなく、ソーシャルメディアでも積極的に人とぶつかり合おうとしている。それは、その人が嫌いだからだとか、人格を否定するためではない。違う意見を持った者同士がぶつかることで、新しい発見があるからだ。
 

好かれたくもない人は「放っておく」

「議論は一致しなければ意味がない」
「意見が一致しない」=「相手のことを嫌いなんじゃないか」
という意識は、いい加減やめよう。
「わかり合えないことがわかり合えた」でいいのだ。
「価値観や意見が違う」ことがわかることが大事なのだ。人間関係は、デジタルで分けられるものではない。色彩豊かなグラデーションで構成されている。したがって「この点については意見は異なるけれど、相手とは仲がいい」ということだって、大いにありうるわけだ。

本当にそこまでして好かれる必要があるか?

確かに意見が異なる人間を、自分たちの輪の中から全力ではじき出そうとする人もいる。
実際、著名人であっても、支持者やファンにそっぽを向かれないよう、自分に貼られたレッテルから外れた意見を言わないように振る舞っている人は多い。
そのとき考えてほしいのは、そんな人からも好かれたいのか、ということだ。一緒にいて嬉しくもない人にまで好かれようとするから、本当の必要なことが見えなくなるのだ。
誰かがあなたについてどう思おうが、それは自分の問題ではなく、相手の問題だ。他人が誰を嫌おうと、何を考えようと、それはあなたの人生にはかかわりのないことだ。
それに気づいたら、好かれたくもない人のことなど、「放っておく」こと。「相手が自分をどう思っているのか」なんてことにかかわりあって、自分の人生がなおざりになるなんて、本当にもったいないと思う。

周囲の「空気」や同調圧力など気にしてもしょうがない。

同調圧力をかけてくる奴らは気持ち悪いが、それを気にして同調するのも同じくらいに気持ちが悪い。
輪のメンバーから嫌われたからといって、恐れているような実害など存在しないのだ。
結局、本当に言いたいことがあれば、言えばいいと思う。ケンカになってしまうこともあるかもしれないが、むしろそうすることで相手の考えがわかるし、いつかわかり合えることもあるのではないかと思う。

2016.02/12

新しい移住先で悩ます問題に「噂話」がある。
根も葉もない話や、誇大になった話、言ってもいない事が言ったことになっている、決めつけと思い込みでどうしようもないくだらない噂話。
 
そして行政もロクな話もせず、個人的な思い込みや決めつけなど実際に行動されてたこともある、邪推だが「バカにしてんの?」そんな嫌な思いも経験し、行政に対して距離を置くことにし、毎回新しい人事でまともな常識ある来島を少しばかりしているんだが・・・・。
 
島の人口は少ない、新しい移住者の話で持ちきりになるが、8割方思い込みといい加減な人間の決めつけで迷惑を被るのは移住者。内容を確かめれば「言っていない」とか「なぁ〜んだそうなのですね」とか呆れることばかり(苦笑)
噂を流す人間と面識すらないのにも関わらず、いい加減な情報で決めつけられることで、仕事や事業展開に迷惑を被る、または阻害されたりね、もう笑い話の域を出て怒りすら覚える。
そこで僕らが励行していることがあるんですが、いい記事があったのでご紹介します。
 
まぁ〜当事者でしっかり顔見て話をすることが一番なんですが、その話すら誇大に表現されたり、勝手な了見の狭い思考で姑息にもその人間性が疑うこともある。
特別なライフスタイルや信念のもと行動している人間を理解できないんでしょう。
 冗談すら通用しないのですから、絶対冗談はいけない、それも真実となってしまいます。
 
記事リンク--------
うわさ話やゴシップの対象になる人は、大抵みんなに幸せそうだと思われている人です。では、どうしてうわさ話をする人より、される人のほうが幸せなのでしょうか? 今回はその理由を考えていきましょう。
 

1. 他人のことを話すような時間の無駄遣いをしない

こんな格言を聞いたことがありますか?
偉大な人はアイデアについて話し、普通の人は物事について話し、つまらない人間は他人のことを話す。
人の口によくのぼる人というのは、偉大な人です。そのような人は自分のことをするのに忙しく、常に成長を続け、幸せなので、うわさ話をしているヒマはありません。
 

2. うわさ話が好きな人の周りにいない

幸せや内面的な喜びは、自分の周りにいる人に大きく影響されます。いつもうわさ話をしているような人の周りにいたら、あなたもその程度の人間にしか成長できません。基本的にうわさ話というのは有害なものです。
したがって、自分や他人に関するうわさ話やゴシップを聞かないのなら、おそらく良い人たちに囲まれているのでしょう。あなた自身がゴシップ好きなら、今の状態が本当に幸せなのか、周りを見渡して考えたほうがいいです。
 

3. 偏った考えをしない

人は、うわさ話をするとき、大抵何かを支持します。そして、特定の考え方や方向性に偏り始めます。最終的には「誰かや何かに対して、あえて物申さなくてもいいか」と思い始め、そうなってしまうと、不幸の始まりです。こうして集団は不幸になっていきます。
しかし、うわさ話で時間を無駄にしたり、人から聞いた話を鵜呑みにしたりせず、自分の意見を固めていれば、信念を守ることができるため、幸せでいられます。
 

4. 人として学び、成長している

うわさ話からは何も学ぶことはありません。もしあるとすれば、物事を一方的に判断するような人間になる方法だけです。そんな人間とたくさん話したいと思いますか?
偉大な人は、人を判断する方法を学んだりしません。もっと生産的なことをやっています。事実や面白いアイデアに浸り、学び、成長しています。人はそうやって成長すると、より幸せになれるのです。
 

5. 嘘つきではないことを誇りに思っている

ゴシップというのは嘘と同じです。真実は常に拡大解釈され、すべてが際限なく誇張されます。嘘つきは喪失感や空白を埋めるためだけに大きな話をしているのであって、幸せではありません。
ゴシップの対象となっている人は、代わりに別の人と有意義な会話をしているので幸せです。そういう人は、無意味な嘘や半信半疑なことを話す必要はまったくありません。
 

6. 友だちのことを信じている

うわさ話やゴシップが好きな人は、皮肉なことに常に他人のうわさばかりする人に囲まれています。そして「友だちは私の陰口も言っているのではないか?」と疑うようになります。個人的に、うわさ話が好きな人は、周りの人のことを疑い始めるので、幸せではないと思っています。
うわさ話をしない人は、周りの人を疑う必要がありません。友だちは、自分に味方してくれる本当の友だちだとわかっているので、幸せなのです。
 

7. 職場でも心穏やかでいる

社内政治や駆け引き、人間関係は、どんな職場でも悩みの種です。誰もがうわさ話をし続けると、職場の雰囲気や環境は悪くなります。
うわさ話をしない人は、職場の人間関係をクリアにしてくれます。そうすると仕事に集中でき、結果、良い仕事ができるので、職場でも幸せでいられます。
 

8. 人が良く、誰かを助ける

うわさ話をしていると、誰かに対して先入観が生まれます。それは大抵良い先入観ではありません。その結果、うわさ話が好きな人は、まったく良い人ではなくなります。嫌なヤツは幸せではありません。心の奥底では苦しんでいます。
考えてもみてください。自分が良い人で、周りの人の役に立っていれば、それは幸せですよね。まともな人が、人が良いせいで不幸になるなんてことはありません。時には、他人を助けることでしか幸せになれない場合もあります。
 

9. 尊敬されている

うわさ話をしない人は尊敬に値する人です。うわさ話をする人は、他人をどうすれば尊敬できるのかもわかっていません。誰かに尊敬されていると、周りの人はあなたについて良いことしか言いません。そんな人が不幸になるはずがありません。
 
9 Reasons Why That Person You Gossip About is Happier Than You|Pick The Brain

お気楽アイデアマンが現場を消耗させる

木下 斉 :まちビジネス事業家
2015年11月06日

アイデアを実現し、アイデアをきちんと評価することは、意外と難しい。お気楽アイデアマンに振り回されないようにしたいものだ。
「いい地域活性化のアイデア」はないか、という定番のご質問があります。地域で必要なのは単なる思いつきの「アイデア」ではなく、地味でも小さな実践の積み上げであり、その先に生まれていく知恵です。
実際に地域を変えるのは、奇抜な提案をするアイデアマンではなく、必要なことから目を背けず、課題を解決しながら成果を収めていく人です。
今回は、地方では未だよくわからないアイデアを提案し続ける「お気楽アイデアマン」による地方の現場消耗について整理します。否定も制約も考慮しないブレストで人材を消耗
「批判しないでアイデアを出し合いましょう」、「これはブレストですから制約とかで萎縮しない意見を」とかいって、アイデア出しの会議に膨大な時間をかける人がいます。確かに否定がなければ発言する側も気楽ですし、運営する側も気楽です。しかし、地域での実際の取り組みは、「さまざまな人たちからの質問」「自分が考えもしなかったような多角的な視点からの疑問」と向き合いながら、複雑に絡んだ糸を解くようにプロジェクトを進めていかなくてはなりません。さらには「制約条件」がない実社会などはなく、むしろ実際には資金や人間関係など複雑な制約条件を突破する工夫こそが重要です。そこがなければ、何事も形になりません。困るのは、このようなアイデアばかりをこなしあっている会議に、地元で事業に奮闘している実践者が声をかけられ、巻き込まれてしまうことです。実際に事業に取り組んでいる人たちからすれば、そもそも実践もしていない人たちの会議に出て、単なる意見出しに参加するなんてことはほとんど意味がありません。むしろ地域の主要な人物たちが事業に取り組む時間さえも消耗されてしまいます。

困ったお気楽アイデアマンの特徴 

最近では、困ったことにアイデア出し自体を予算型イベントとして開催する事例も出てきています。地域の人たちのリソースが、実践なきアイデア出しに消耗されているのです。何より「アイデアを出し合いましょう」ということを言うお気楽アイデアマンに限って、実は、その人自身は大したアイデアを持っていないという笑えない話があります。
自主的に取り組まず予算を食い潰す
当然、アイデアがない人が集める人たちの多くもまたアイデアもありません。何より集まる人たちは、自ら実践していない人が多く、出されるアイデアはどこかで見聞きしたような事例のパクリばかりになってしまいます。しかし、それでも内輪では盛り上がってしまいます。
更に困るのは、内輪で盛り上がった「思いつきのパクリアイデア」を自分たちでやるのではなく、役所にいって予算をもらうネタにしていってしまいます。この連載でも何度も指摘しているように、予算依存の取り組みは成果は生まれず、継続もしないまま終わっていきます。さらに、人の金でやった取り組みだけに、失敗しても反省もまともに行われません。「この地域には早かった」「タイミングが悪かった」「他の人に邪魔をされた」といった言い訳だけが繰り返されます。実際にはそもそも大したアイデアでもないものを厳しく叩きもせず、そもそも予算に依存するという「実践力」の不足が失敗の本質であるわけですが、そこに目がまったく向きません。お気楽アイデアマンたちは、そもそもアイデアを評価する段階でもまったく筋違いの視点を持っています。 

本当に地域を変えたいなら…

(1)「新規性」という目新しさばかりを追い求める

地域のアイデアではすぐに「新しい」ということばかりを評価します。しかし、重要なのは、新しいか、古いか、ではありません。地域における課題をそもそも解決するものであるのか、もしくは地域の将来成長に寄与する内容であるのか、という話なのです。
別に新しくなくても、行わなくてはならない地味な事業と向き合うことのほうが大切です。当たり前のことをしっかりしていくことをおろそかにして、目新しいことばかりを追い求めても無意味です。

2)「~らしいアイデア」という勝手なイメージを強要する

学生などに「若者らしいアイデア」とか、女性には「女らしいアイデア」とかを求めます。しかし本当に地域に必要な提案は、その提案者の属性に沿った「◯◯らしさ」とかは必要ありません。地域に必要であれば、その提案者の年齢や性別などの属性などは関係なく評価する姿勢がなくてはならないわけです。
◯◯らしさ、といった、考える人の属性をネタにした奇抜なアイデアを評価することも、ある意味でアイデアを集める側の都合のよいストーリーとも言えます。

(3)「プレゼン技術」による情緒性で評価してしまう

アイデアの内容ではなく、情に訴える、共感性を高めたプレゼンで安易に感動してしまい、評価してしまうことが多くあります。プレゼン技術がいくらあって共感を集めても、結局のところ自ら実践する覚悟がなければ、それは単なるホラ吹きにほかなりません。
このような視点でアイデアを評価してしまうため、実際に地域に必要な課題解決など、厳しい実践力が求められる提案は出ませんし、お花畑思考の域を超えないものばかりになっていきます。

実践と失敗を通じて「本当の知恵」は生まれる

本当に地域に必要なのは、思いつきのアイデアなどでは決してありません。地域において賛否両論の中でも小さく取り組みを始めて積み上げ、さまざまな制約条件をクリアし、結果として「成果」といえるものを残すことが大切なわけです。
そして何より、実践の中には失敗が伴います。その失敗から学び、再挑戦する中で、本当に地域の抱える課題を解決しうる、現実味のある「本当の知恵」が生み出されます。会議室に集まり、皆で褒め合うような意味不明なアイデア会議ばかりをしていて、地域が再生するのであれば、もう何十年も前に再生しています本気で事業に取り組む方は、現場に集中するため、できるだけ実践なきアイデア出しの会議には誘われても出席しないほうが得策です。最初は地味で馬鹿にされ、途中で失敗などすると、多くの人は「ほら見たか」と罵られることもありますが、その後に成果が伴えば人々の評価は確かなものになります。
一方で、派手な新規性のある提案を、勢いよくやっていたとしても、それが時間を経て地域にとってはまったく良いものではなかったことが明らかになる取り組みもあります。地道でもしっかりと成果を積み上げていくことでしか、地域は変わりません。そのような試行錯誤の先に生み出される、その地域独自の「本当の知恵」を生み出すことこそ、今、地方に必要なことです。
 
確かにやってみなけりゃ何も始まらない、ある程度リスクしょって実践しなきゃ、わからないことたくさんあります。
地域でそのアイデアは面白いから補助金獲得しようっていう方がいますが、既得権益者がyesと言わなければやらない(笑)一部の人間たちがね。
そのような方たちは、その発想そのものがその地域をダメにしていることわかってない、失敗は他人のせい、補助金で痛い目をあまりみないから、失敗から何も学ばない。
提案する方も自分たちに火の粉がかぶらないから、それっきりで終わることが多いよね行政さん。
委託事業でも赤字を減らす改善策もなければ、食い潰すことだけで行政からキビシク指摘されれば、やらなければいけないことを棚に上げて、「やめる」決断し無責任にも他の助成金事業を探す。
現場に命令や指示だけで、地域で必要だから守る!なんて言っててその委託事業団体は努力もしない、そんな団体が次の助成金を品定めなど愚の骨頂ですね。
地元ではなかなかこういう大事な話しは誰もしたがらないし避けてますよね。地元でイベント開催している団体は、本業の儲けに連動した活動しかせず、持続可能な活性化を本当にやる気があるのかわかりません、とにかく幅広い横のつながりがないことも問題です、どのイベント見ても良いと思えるものが1つくらいしかありませんし、年寄りが我が物顔で前に出ているので若い世代に任せてもらえず、こき使われる、それもボランティアとして(笑)終わってる・・・閉山後からなぁ〜んも変わらず保身ありきの助成金の無駄使いだからね。

なかなか地方の活性化の諸問題をわかりやすく解説している
地域活性には4つの欠かせない人材の要素があります。
1.わかもの
2.よそもの
3.切れもの
4.ばかもの
こうした人材を受け入れて、活かす事が出来る土壌が必要なんですよね。 
地域で長きにわたり生活している人には、町の現状がハッキリ見えていないってことです。 
そして年長者の生きた時代の歴史がありますが、昭和の生き方はもはや通用しない時代、そして資本主義経済の行き詰まりを知り、「今」よりも「未来」を作るために若者が必要、次の時代を生活する若者意見を取り入れなければいけないことなんですね。 
年長権力者が長く町の活性化などに携わることは、悪しき風習にも気がつかず、弊害になってることが地方の活性化が進まない原因の一つ。まして過疎で人口が減っていくことを目の当たりにしながら、自分の保身ばかり考えた老人たち 
これじゃ定住者も増えないね、既得権益をもう次世代の人間へ移譲しなければいけないのです。 
収入よりも島の新しい定住者が平等に活躍できる土壌を作らなければ、収入確保の起業すらできなくなっているのです。なんでも雇用のためと言いながら、ご自分の事業にメリットのある投資をしない助成金頼りのスタイルはもうやめなければいけない。自ら島に投資もしないで助成金頼りではまともに税金が使われない、あなたの保身のために税金を投入しているのではないのだから。 
アメリカの首相すら40代だった時期もあるし、今や地方の知事でも30代は珍しくなくなったよね。 
そしてこういう人材を使って利己的な事に使う年配者・こういう人材を毛嫌いし「まだまだ若いもんに負けん!」などと言い放つ老害が地域をここでもダメにしている・・・・・。高齢化の過疎に若者が入ってきたら、意見が違っても聞く姿勢が必要であり、阻害なんてもってのほかですよね。 
行政本来の仕事は「地域住民の生活が安全で便利になるようにする」、地域活性化や観光事業など専門スキルがないのにできるわけがないだろうって当たり前の話、地域行政は住み良い社会の貢献であって、観光やイベントや訪れる客目当ての事業が優先されるべきじゃない。
助成金を取ってきて「さぁ〜なにしましょうか?」など、島に無駄な税金名目の事業を得意になっている職員や、それを使いたがっている民間団体がいるが多分地域社会の経済を単純に「金」としか見てないのは3流である(笑)
WEBでも途中まで閲覧できます。 
http://minorikou.blog.jp/archives/cat_103985.html
 

日本は世界一の長寿大国であり少子高齢化社会。
島民が少ないというのは、労働力不足もさることながら、もっと深刻な問題を引き起こす。移住し起業で苦戦している問題で既得権益者が老人・・・・次世代の仕事を奪おうとしている。
まぁ〜年老いても元気なのはいいことであるが、年金受給で生活安定者がいつまでも権力で動き回るのはどうかな?
僕らが移住してくる前まではそれでよかったかもしれないが、今は環境がめまぐるしく変わって、もう炭鉱の高島を知らない人間が移住している。閉山後29年超保守的な社会が創造されてしまい、既得権益者の傘下や軍門に入らなければ仕事を邪魔する(笑)
日本は出る杭は打たれるとはいうものの、人口減少で孤軍奮闘も限界、楽して助成金に頼る老人社会。
発想もなく委託事業を引き受け「ウチの団体しかないからしょーがなく・・・」赤字を減らす努力をしよーぜおじいちゃん。
島のことは何でも自分でやりたいのかな?
ここは長崎市なんですよ、あなたがこだわる「町」じゃないんですよもう。あなたに島のクリエイトは無理です、センスないし旧態依然体質で乗り越えられる時代じゃないのです。
高度経済成長時代がまたやってくるとでも?(笑)
人と変わったことをやるとそれはねとウンチクの人がいつの間にやらパクリ(笑)それもセンス悪く。
島民生活は良くなっていないのに、観光事業の経済効果はすごいよ!とか興奮している人がいる。商売やっている一部の人間だろってそんな事業、その陰で関われるあなたがた老人がチャンスをたくさん潰している、地域環境すら破壊していることに気がついてないんだろうね。
ほとんど僕ら団体と触れ合ったことも真剣に話もしたことが無く、避けていて悪口を言う人がいる。そこに事実を知っているにもかかわらず権力者へ意見も間違いも指摘できないでいる人もいる。
私はこういう村社会主義が気持ち悪い。
若者に元気がなくなるわけだね。
過疎でね起業するとはリスクを自分で取り、形骸化した古い価値を壊して新しい価値を生みださなければ、この島は閉山後の間ま衰退していくだけだ。この島の既得権益者の老人たちは、自分の子供や新しい若い移住者の未来をどう思っているんだろうね?
早く隠居か引退かしないと、新しい時代の感性の若者が詰まっているんだ、道を開けてはくれないだろうか?
ご自分の過去の奪った商売だけ熱心に自ら働け、島のことは次世代にバトンタッチしてくださいと言いたい。
定住率が悪いところは「老害」も一つの原因ではないかな。
しかしねこの数年これほど苦痛を伴っても<span>こんなに楽しいことは無かったね。
よそ者と言われ、出る杭が打たれる環境で、自分はそんな老人にはなりたくないね。だからこれからも私はとことんこの島で出る杭になりたいと思っている。
そして老後はゆっくり若者の応援をしたいね、邪魔は絶対したくないんだよね。
今の日本もこの島も決して子ども達の未来を真剣に考えてくれていると私は思わない。子どもの未来を真剣に考えてあげられるのは親しかいない。サヨナラロウガイ。

リオ+20会議(2012年)での衝撃的なスピーチの1ヶ月前に行われた、ベネズエラ放送局のLa Hojillaという番組のインタビューです。
ムヒカ大統領:マス消費主義な社会が経済を影響しているものになっていて、この使い捨てをする社会にはそのようなモデルがないと半永久的に消費することができないのです。それを変えるのが一番の難関ですね。
ある考え方をまた紹介させてください。
人は物を買う時は、お金で買っていないのです。そのお金を貯めるための人生の裂いた時間で買っているのですよ。
従って人を雇っている場合、その人の時間で物を買っていることになるのです。経済資源というのはそういう人生の時間を裂いたものから出来ているのです。
人間のもっとも大事なものが生きる時間だとしたら、この消費主義社会はそのもっとも大事なものを奪って行っているのですよ。
幼稚な考え方でとらえないでください。人間はもっと良い暮らしを持つためにものが必要なのですが、それを達成するために消費と仕事をどんどん増やさなければ行けない計画的陳腐化や底を知らない消費主義社会にイエスと言ってはいけないのです。だから社会主義が必要なんです、或はこういった問題を問いただす社会が必要なのです。これは命を食べるマシーンなのですよ。人の人生の時間を奪って行く現代の奴隷制度ですよ。
私の国では、国民は6時間労働を賛同しています。でもそれは労働時間を減らすためではなく、もうひとつの6時間労働の仕事が持てるためです。労働時間を減らすはずが、前よりも多く働いているのです。なぜか?
子供の頃からテレビスクリーンで見ているものが消費と消費、ものを買い続けることが幸せだというメッセージを受けているからです。そんな社会に私たちは押し込まれているのです。そんな社会を裁判にかけることは非常に危ない行為です。
 
インタビュアー:でも革命的ですよね
ムヒカ大統領:政治というのは哲学の分野を差し置いてはいけません。哲学がなければ、めざす道がないのです。そこに大きな違いがあります。もっと良い世の中の目指すということは中古車を集め、乗客率を倍にするということではありません。そんなことやっていたら水の泡です。人生を生きる時間を倍にするのです。

 生きる時間とは何か?

 自分が自由に使える時間のことです。やりたいことをやる時間のことです。ある人にとっては、それはサッカーをすることかもしれないし、別の人にとっては釣りをする時間ですし、木の下にいることかもしれない。
自分の人生の時間をすきなことに使っている時が本当に自由なときなのですよ。そして、自分と家族の物質的な欲求を満たすために働く時間は自由ではないのです。そこで昔ながらの欲求の法則にすっぽり入って行くのです。仕事が好きかどうかは別の話です。その働いていない時間のことが自由なのだと指しているのです。
自由になるための戦いというのはどれくらい自由な時間を確保できるかにかかっているのだと私は言いたいのです。もので溢れることが自由なのではなく、時間で溢れることこそが自由なのです。
しかし、マスメディアに影響され罠にハマっている我々の社会にこの捉え方はあまりにも複雑すぎるかもしれません。
自分を鎖で背中を打て(聖書で言う、自己鍛錬や罪を免除するための行い)なんて言ってません。貧乏人の誤りなんてしていません。制限と節度ある生活のコンセプトを提案しているのです。人生には制限もなければならないんです。制限がなければ。。。
 
インタビュアー:人生に制限が必要だなんて言っていたら独裁主義と言われないですか?
 
ムヒカ大統領:うん、たぶんそう言われるだろうね。でもその制限というのは文化や自由意志から生まれるものでなければならないのですよ。この議論から誕生しなければならない。あなたが人生をストリッパーとして過ごしたければ、私は「おお、彼はなんてすごいんだ。俺は頑張ってもステージにも上れないのに」と言ってやるよ。でもどんな人生を送るかはあなたの自由なのです、そんな自由な選択のためなら私は死んでもいい。自由意志から生まれた自由な選択と限られた選択肢から強引に選択させられるのとは別ものですよ。あの工場に12時間、16時間働かなければならない選択は自由とは言いえない。</span>
 
インタビュアー:はい、消費による牢獄ですね。
 
ムヒカ大統領:そこにジレンマがあるのです。各社会が成長を目指す世界に私は長く浸かっていました。私の方が隣より数トン多くの鉄を作るからすごいとか、隣の鉄の方が良いから彼の事業を潰すとか、バカらしいんです!一番良いものを選ばなければならない。いまそう考えているんです。時間がないので提言をしてまとめてみるよ。そもそも提言する行為自体がとても大雑把すりるものだけどね。
人間というのは生物学的に見れば社会主義的な動物なのです。なぜかというと、人間という生き物が世界に誕生してから現代に至るまでの90%の時を先史時代に生きていて、その先史時代中は「私のもの」や「あなたのもの」という概念がなかった。「私たちみんなのもの」しかなかったんです。それが人間誕生からいままでの歴史大雑把にまとめたらそんな感じですよ。その歴史の残りの10%だけが現代のフェーズなのですよ。
生物学的に社会主義なのだけれど、歴史の出来事によって資本主義、商業主義的な人間に変わってきました。自分たちを矛盾しているのですよ。私たちのハードディスクは社会主義なのに、発展の歴史が私たちのOSを資本主義にしてしまった。何か繋がらないまま、何か足りないままさまよっているのです。
インタビュアー: 何を消費してもそうですよね
 
ムヒカ大統領:これはドン・キホーテがカブレロスでのスピーチでもこう言っています。「あなたと私のものがお互いを引き離す理由にならなかった時代は最高だった。その後は所有権によって私たちは離れていったのです」
インタビュアー:それは彼女が作ったコンセプトですよね。
 
ムヒカ大統領:次に言うことはいろんな人にショックを与え、私は殴られるかも知れないが構わない、言ってやる。いまから言うことは近代科学や人類学の発見でもあるのですよ。これも分析に入れないといけない。要するに、人間の遺伝子には記憶があるんです。
 
インタビュアー:だから私たちのハードディスクは社会主義であるというのがあるのですね。人間は社交的な動物で一人では生きて行けない。社会なしの人間は何もできない。
 
ムヒカ大統領:なので、そんな罠にいまハマっているのです。そんな歴史的フェーズにいまいるのです。いま話していたことがラテンアメリカでは実験として試されているのだと私は思います。チャベスが「パチャママを傷つけるから穴を開けられない」と言ったり、私が「火で社会をまわすバイオ可熱物」と言ったりすると彼に怒られるのもそうです。やはり彼が正しいのでは?
共感できないものを理解するための努力をする社会にするにはどうすればいいんですか?理解するというのはプロセスなのですよ。
私が夢見る自由な世界というのは、みんな同じ考えで同じアイデンティティーを持ち、同じことを言う自由でではありません。自由というのは出発点にすぎません。そしてその後は。。。その後は私の残った人生でそれを確かめたい。
http://hana.bi/2012/09/mujica-interview-nihongo/
http://hana.bi/2012/09/mujica-interview-nihongo/
 
上記のインタビュー後に行われた、リオ会議(環境の未来を決める会議)でのホセ・ムヒカ(ウルグアイ)大統領のスピーチは、人類の心に突き刺さりました。

会場にお越しの政府や代表のみなさま、ありがとうございます。
ここに招待いただいたブラジルとディルマ・ルセフ大統領に感謝いたします。
私の前に、ここに立って演説した快きプレゼンテーターのみなさまにも感謝いたします。
国を代表する者同士、人類が必要であろう国同士の決議を議決しなければならない素直な志をここで表現しているのだと思います。
しかし、頭の中にある厳しい疑問を声に出させてください。
 
午後からずっと話されていたことは持続可能な発展と世界の貧困をなくすことでした。私たちの本音は何なのでしょうか?
現在の裕福な国々の発展と消費モデルを真似することでしょうか?
質問をさせてください
ドイツ人が一世帯で持つ車と同じ数の車をインド人が持てばこの惑星はどうなるのでしょうか。
息するための酸素がどれくらい残るのでしょうか。同じ質問を別の言い方ですると、西洋の富裕社会が持つ同じ傲慢な消費を世界の70億~80億人の人ができるほどの原料がこの地球にあるのでしょうか?
可能ですか?それとも別の議論をしなければならないのでしょうか?
なぜ私たちはこのような社会を作ってしまったのですか?
マーケットエコノミーの子供、資本主義の子供たち、即ち私たちが間違いなくこの無限の消費と発展を求める社会を作って来たのです。
マーケット経済がマーケット社会を造り、このグローバリゼーションが世界のあちこちまで原料を探し求める社会にしたのではないでしょうか。
私たちがグローバリゼーションをコントロールしていますか?
あるいはグローバリゼーションが私たちをコントロールしているのではないでしょうか?
このような残酷な競争で成り立つ消費主義社会で「みんなの世界を良くしていこう」というような共存共栄な議論はできるのでしょうか?
どこまでが仲間でどこからがライバルなのですか?
このようなことを言うのはこのイベントの重要性を批判するためのものではありません。
その逆です。我々の前に立つ巨大な危機問題は環境危機ではありません、政治的な危機問題なのです。
現代に至っては、人類が作ったこの大きな勢力をコントロールしきれていません。逆に、人類がこの消費社会にコントロールされているのです。
私たちは発展するために生まれてきているわけではありません。

幸せになるためにこの地球にやってきたのです。

人生は短いし、すぐ目の前を過ぎてしまいます。命よりも高価なものは存在しません。ハイパー消費が世界を壊しているのにも関わらず、高価な商品やライフスタイルのために人生を放り出しているのです。
消費が社会のモーターの世界では私たちは消費をひたすら早く多くしなくてはなりません。消費が止まれば経済が麻痺し、経済が麻痺すれば不況のお化けがみんなの前に現れるのです。このハイパー消費を続けるためには商品の寿命を縮め、できるだけ多く売らなければなりません。ということは、10万時間持つ電球を作れるのに、1000時間しか持たない電球しか売ってはいけない社会にいるのです!
そんな長く持つ電球はマーケットに良くないので作ってはいけないのです。

人がもっと働くため、もっと売るたに「使い捨ての社会」を続けなければならないのです。悪循環の中にいるのにお気づきでしょうか。

これはまぎれも無く政治問題ですし、この問題を別の解決の道に私たち首脳は世界を導かなければなりません。
石器時代に戻れとは言っていません、マーケットをまたコントロールしなければならないと言っているのです。
私の謙虚な考え方では、これは政治問題です。
昔の賢明な方々、エピクロス、セネカやアイマラ民族までこんなことを言っています

「貧乏なひととは、少ししかものを持っていない人ではなく、無限の欲があり、いくらあっても満足しない人のことだ」

これはこの議論にとって文化的なキーポイントだと思います。
国の代表者としてリオ会議の決議や会合にそういう気持ちで参加しています。
私のスピーチの中には耳が痛くなるような言葉がけっこうあると思いますが、みなさんには水源危機と環境危機が問題源でないことを分かってほしいのです。
根本的な問題は私たちが実行した社会モデルなのです。
そして、改めて見直さなければならないのは私たちの生活スタイルだということ。
私は環境資源に恵まれている小さな国の代表です。
私の国には300万人ほどの国民しかいません。
でも、世界でもっとも美味しい1300万頭の牛が私の国にはあります。
ヤギも800万から1000万頭ほどいます。
私の国は食べ物の輸出国です。こんな小さい国なのに領土の90%が資源豊富なのです。
私の同志である労働者たちは、8時間労働を成立させるために戦いました。</span>
そして今では、6時間労働を獲得した人もいます。
しかしながら、6時間労働になった人たちは別の仕事もしており、結局は以前よりも長時間働いています。
 
なぜか?バイク、車、などのリポ払いやローンを支払わないといけないのです。
毎月2倍働き、ローンを払っていったら、いつの間にか私のような老人になっているのです。
私と同じく、幸福な人生が目の前を一瞬で過ぎてしまいます。
そして自分にこんな質問を投げかけます。

これが人類の運命なのか?

私の言っていることはとてもシンプルなものですよ:発展は幸福を阻害するものであってはいけないのです。
発展は人類に幸福をもたらすものでなくてはなりません。
愛情や人間関係、子どもを育てること、友達を持つこと、そして必要最低限のものを持つこと。これらをもたらすべきなのです。
幸福が私たちのもっとも大切なものだからです。
環境のために戦うのであれば、人類の幸福こそが環境の一番大切な要素であるということを覚えておかなくてはなりません。
https://www.youtube.com/watch?v=jwbaoi6a4BU
 

ビジネスの芽を摘む「地域魔女狩り」の仕組み

木下 斉 :地方再生人、内閣官房地域活性化伝道師
2015年09月01日

なぜ地方では新しい事業がつぶされてしまうのか。
そこには見えない壁とワナがある。
「地方創生に必要なのは、稼ぐ民の力だ」。
8月28日にこのテーマを掲げて開かれた「地方創生サミット」には、おかげさまで多くの方に参加いただき、大盛況のうちに終了することができました。この連載を楽しみにしてくださっている読者の方々にも、多数お目にかかることができました。ありがとうございました。
さて、サミットの成果も踏まえ、今回は地方の再生や活性化に欠かせない、新規事業について考えます。
志は高いのに批判の嵐・・新しい事業がつぶれる仕組み
地方が衰退する状況を打破するためには、もちろん縮小している既存事業を立て直すのが重要です。しかし、それだけでなく、新たな事業を立ち上げ「稼ぐ仕組み」を作り、域外からの収入をあげたり、雇用も増やしていこうという意欲的な取り組みがどこでも行われています。
もちろん、新規事業への支援は、農林水産業、工業、商業といったさまざまな分野で横断的に行われていますが、なかなか軌道に乗りませなん。実は地域における新規事業には、「見えない壁とワナ」が多く存在しているのです。

どんな「壁」や「ワナ」が存在するのか

前出のサミットでは、食、医療、金融、エネルギーなどの各分野で成功している事業家の皆さんに登壇いただきましたが、彼らはそれを乗り越える工夫をしていることもわかりました。では、新しい事業をする場合、いったい何が成功と失敗を分けるのでしょうか。
いうまでもなく、新規事業は「商品・サービス」「顧客」「方法」がすべて従来とは異なる形で始められることになります。
「聞いてない」「わからない」・・関係ない人がつくる壁
地域で新しい事業をする際には初期段階で、さまざまな反応が出ます。
すぐに周囲がその新しい取り組みに気づき、実は全く事業に直接関係ない人まで、反応を示したりします。ある人は「聞いていない」と言い出したり、説明をすると「こんな事業はわけがわからない」とダメ出しもします。こうした声を無視すると、今度は「あの事業はうまくいかないよ」などと丁寧に悪い噂まで広げて下さったりします。「不必要な御意見番」が沢山出るのです。このように、地域での事業で厄介なのは、事業に直接的に関係するステイクホルダー(利害関係者)だけでなく、その外にいてリスクも負わず、事業の影響を特段受けるわけでもない人まで、「連絡」と「理解」を求めたりすることです。これが小さいようで、実は大きな壁です。結局は、衰退している地域で、ひとことモノ申したいだけだったりしますが、新規事業の初期段階では、そんなことにいちいち対応している余裕はありません。本来、新規事業は、初期段階でできるだけ事業に集中しなくては、成果など生まれません。しかし、地域では関係ないひとからさまざまな邪魔が入ります。時には親切を装っていたりさえするから厄介です。この最初の段階をうまくやり過ごさないと、事業がどんどん歪んでいき、遅延していき、挑戦することがないままにつぶれてしまうことも多々あります。

なぜビジネスプラン・コンペはダメなのか

一方、地方の新規事業に関しては、近年「ビジネスプラン・コンペティション」(公開プレゼンなどで、新しいビジネスを評価する仕組み)もよく聞きます。
これは、新規事業の提案を幅広く外部からも集め、それに支援をつけるという取り組みで、全国各地で行われています。
「ビジネスコンペ」が地域をつぶすメカニズムとは?
その多くは、地域で新たな事業を考える若者たちなどを集め、計画案をプレゼンさせ、審査委員が審査、お眼鏡にかなったプランには賞金や補助金が提供されるというものです。一見すれば素晴らしい取り組みのようですが、そうとも言えません。審査委員は衰退している商店街の商店主や融資審査をしている地元金融機関の担当、自治体の商業政策担当、地元大学の先生、よくわからないコンサルタントなどが中心で、新規事業を自分で立ち上げ軌道に乗せてきた人たちではない場合が多くあります。そのような人々が集まり、新規事業審査をして、その審査にどこまで意味があるというのでしょうか。さらに困ったことに、こうしたコンペに参加する人たちも、実はコンペにおいて評価されても、評価されなくても、どちらに転んでも問題を抱えることになります。まず、運悪く落選した人は、せっかく地域で挑戦しようと思っても、このプレゼンによって、挑戦する前から「あいつはダメな計画をたてたやつ」と烙印を押されてしまいます。また、審査で評価された人たちも問題です。事実上、何の挑戦もしていない段階からプレゼン能力などで優勝賞金をもらったり、逆に初めて行う事業なのに最初から補助金漬けにさせられてしまうからです。そもそも地域の新規事業で何が当たるなど、事前にわかるわけがありません。まずは始めてみて、それを軌道修正しながら成果を上げていくしかないのです。いちいち計画段階で「議論」すること自体がナンセンスです。地域の新事業とは、巨額を要する工場を建設するわけでもなく、まずは数十万円程度で試しにやってみることができる類のものが多いのです。こうした小規模事業を始める前に、皆で議論するのに数百万円もの予算をかけ、皆の労力を割くこと自体が滑稽です。
役に立たない「コンペ」はやめたほうがよい
そんな予算と労力があるなら、審査委員たちがまず事業をやって見せたほうがよいでしょう。
事業で重要なのは、計画を机上で戦わせることではなく、結果を戦わせることです。審査することではなく、自ら前を走ることです。本気で事業に挑戦する人は、そもそも前出のようなビジネスプランコンペなどには参加せず、すぐにやり始めます。これから事業を始める人は下手な審査など受けずに、まずはさっさと自分でやるようにしましょう。そして、先を走って地域で実績をあげている事業家と話をするほうがよほど有益です。実は、最近では、応募者不足に悩むビジネスプランコンペでは、学生や若者などを勝手に指名しては計画を立てさせ、実践する前から審査してつぶしてしまったり、はたまた補助金漬けにしてしまう、「魔女狩り」に近いものになっているものも散見されます。実践しない大人たちが集まり、若者たちに新規事業を無理やりやらせようとして、つぶすこと自体が意味不明です。このようなことを繰り返していると、新規事業を正常に立ち上げていく力が地域から失われていきます。その地域には、新しい事業を試す前からつぶしてしまう壁がどんどん出現していきます。地域において新たな事業で実績をあげている人たちは、初期の非難などもたくみにかわしつつ、くだらないビジネスプランコンペなどにも出場せずに独立独歩、自ら挑戦し、試行錯誤しながら成果をあげています。例えば、先日の地方創生サミットにもご登壇頂いた、石垣島のジュエリーブランド「TILLA EARTH」(ティーラ・アース)の平良静男社長がこうしたケースにあてはまります。
今でこそ、石垣島から沖縄本島、伊勢丹本店にも進出して成長を続けていますが、石垣に800万円もかけて小さなショップをオープンした時、「そんな立派な店なんか石垣では流行らない。3日でつぶれる」といったことを周囲から言われたと語っています。
地元では、数百円のおみやげ販売が中心の中、高付加価値商品の製造販売などは不可能だと思っていたわけです。しかし、サンゴや太陽といった石垣島らしさを出した同社のジュエリーは、見事に大輪の花を咲かせ、今や全国だけでなく、その名は海外にもとどろいています。ティーラ・アースなどの活躍がきっかけとなって、今は石垣島からさまざまな高付加価値商品やサービスが生まれ、展開されるようになっています。

事業に集中、実績をあげれば評価は外から高まる

今回のコラムをまとめましょう。
地域での新規事業は初期段階ではさまざまな人から「あれやこれや」と言われますが、それらの言葉に左右されることなく、やり過ごし、仲間と共に事業に集中し、トライ・アンド・エラーを続け、実績をあげれば、評価は後からついてきます。
重要なのは、結果を残すことです。
結果がでれば、評価は後からついています。
特に評価は、大抵の場合、地域内ではなく地域の外から高まります。
外が評価する事実をもとにして地域内での評価も高まるという構造です。
この順番を常に意識しなくてはなりません。
千里の道も一歩から。
始める前からいたずらに値踏みなどせず、始めた後は集中し、事業をどんどん軌道修正しながら成果を出すことに専念する。
これこそ、地域における取り組みで常に意識しなくてはならない鉄則です。

地縁血縁型の「地元プレーヤー」はもう限界

木下 斉 :地方再生人、内閣官房地域活性化伝道師2015年09月15日

 
日本の観光産業は大きな潜在成長力がある。だが地方の有名観光地を訪れると「そう簡単には成長できない」と感じられることもしばしば。なぜだろうか。
今回のコラムでは、「地方の観光」の話をしたいと思います。地方にとって、観光産業は潜在成長力のある分野であることは言うまでもありません。2014年には訪日外国人観光客が約1341万人となり、今年も大きく伸びているわけですが、世界レベルで見れば国際観光客数は11億人超。日本にとってはまだまだ攻めて行ける「可能性に満ちた分野」です。しかしながら、地方の有名観光地を訪れると、残念ながら「可能性は可能性のまま終わり、そう簡単に成長はしないだろう」と感じるのです。
わかっちゃいるけど辞められない「過去」への依存
どういうことでしょうか。
有名観光地においては、どこでも独特な商慣習があります。
「歴史的資産を見に一生に一度は訪れたい」というレベルの観光地なら、黙っていても大量の観光客が毎年続々と訪れます。特に、神社仏閣などでは御開帳や遷宮など、さらに爆発的に人を呼び寄せるタイミングがあり、「コバンザメ商法」によって観光ビジネスが成り立っているところもあります。つまり、観光施設などの観光サービス業の力によって人を集めているのではなく、あくまでそれらの地域が歴史的に形成してきたブランドの「付帯ビジネス」になっているのです。そのため、ホテルや旅館などの宿泊施設や関連サービスは、いまだに「一見さん相手のビジネスモデル」を繰り返しているところが少なくありません。「いかにしてツアー客を自分の施設に呼びこむか」が勝負。
そのため、旅行代理店などに送客費用を支払い、あとは「できるだけ限られた予算の範囲でこなす」という話になります。自らの施設やサービスの品質によって、いかにリピーターを獲得しようという話には、なかなかなりません。
これは宿泊施設だけでなく、土産物屋や観光地の飲食店にも言えることです。<br>こぞってどこでも同じような商品を並べ、どこの地域も、地元向けのパッケージに変えただけで、中身はほぼ同じの温泉まんじゅうなどが並ぶ。さらに、観光地の飲食店といえば「観光地価格」で、大した品質でもないものを高く売りつける
これらの商慣習は合理的であったとも言えます。
つまり、多くの人が指摘するように、団体が観光の主流だった時代まではよかったのです。
しかしながら平成バブル崩壊後は個人旅行が中心になり、個々人が観光ルートを設計するようになり変化が始まります。
さらにネットでの手配が増加し、従来の「一見さんビジネス」は評判が知れ渡り、能動的な観光客はますます泊まらなくなっています。
しかしながら、わかっちゃいるけどやめられない。
一見さんビジネスを続けているから、一定の団体客はくるものの個人客が遠のき、自力では顧客を集められない。
集められないからますます団体旅行や代理店手配の客ばかりに依存するという構図です。

地縁と血縁による「横並びルール」で縛られ過ぎ

さらに観光地においては観光協会、旅館協会など、さまざまな協会が存在し、「横並びルール」を極めて重要視しています。
例えば、土産物屋などの営業時間も横並びで夕方5時閉店となれば、皆でそれを守らなくてはならないといった具合です。夜営業しても客はほとんど来ないからやらない。これは商店街でもよくあるパターンです。「客が来ないから店を閉店する」というけれども、店を閉めれば、そもそも客がくるはずがありません。さらに客が遠のくから、ますます営業時間が短縮されていく、という負の連鎖です。
そもそも「客が来るから店を開く」という発想自体がおかしくて、いかに客にきてもらえるかという「知恵出し」を放棄してしまっているわけです。夜も開いて、夜来てもらえる営業企画を考えよう、朝も開けて商売になるにはどうするか、ということにはならないわけです。これには、地方の観光産業が地縁型事業であり、家族型事業であるという側面が強くあります。
地縁型事業だからこそ、もし横並びルールを逸脱し、地域でにらまれると営業が行いにくくなる。「ムラ社会システム」を壊してまでリスクは負いたくない。
さらに家族型事業だから、無理してまで業績を伸ばすのではなく、一定の規模を維持できればそれで十分という思考になりがちです。
何より、黙っていても、有名な観光拠点があるために、一定の集客を実現できる立地の土地・不動産を保有して営業していればどうにかなる、という恵まれた観光地ほど、この傾向は強いのです。
地域の潜在成長性を引き出すために、やるべき投資を行い、営業方法を変化させ、互いに競争しながら成長していくというよりは、地元の横並びルールを守り、家族でそこそこ経営を成立させるという方向にインセンティブが働いてしまいがちなのです。
「可能性を可能性のまま終わらせない」ためには今後、日本の観光産業振興を進めるには、前述のような過去の商習慣を守り、地縁・血縁型で展開する地元プレーヤーだけでは限界があります。観光立国を目指すなら、地元の関係者を集めて、補助金を投入しても、可能性を花開かせることは極めて難しいのです。
むしろ、地域外からの投資を積極的に迎え入れたり、地域内でも異業種の参入を促進していくことが重要です。
例えば、越後湯沢という場所にありながらスキー観光とは一線を画した「里山十帖」、瀬戸内観光とは一線を画した「OnomichiU2」、善光寺参りに左右されない長野の飲食店やゲストハウスなど、観光地で従来と異なるアプローチをするのは、こうした地域内外の新規参入組です。
今後、本当に日本の観光に世界の富裕層を迎え入れるためには、1泊500万円以上の超高級旅館なども模索しなくてはなりませんが、それらはまさしく地域外からの新規参入が必須でしょう。
観光だけではありません。
地方においては「可能性があると言われ続けながらも、なぜか『可能性のまま』で終わり花開かない」ことが多くあります。
例えば農業でも、その潜在成長性は語られながらも、耕作放棄地は今も全国に多く存在しています。<br>水産業も世界有数の海域を保有し、潜在成長性が語られながらも、我が国の水産資源は枯渇が叫ばれるほどの状況になっています。
また林業においても、国土の多くに多くの山林を抱え、その潜在成長性が語られながらも、荒れ果てた山が増加しています。
これらの構造は、観光と同じように、既存事業者が過去の商習慣と地縁血縁でがんじがらめのまま、可能性を現実のものにできないまま廃れていくというパターンばかりです。
地方においては、意思決定を既存の地元プレーヤーだけに任せない「ガバナンスの再構築」が非常に重要です。このガバナンスの再構築によって、新たな資本や人材が流入したり、地域内での異業種への参入を促す必要があります。そうすれば、日本の地方が保有するさまざまな資源は可能性から、実際に価値を生み出す段階へと移行していくのです。
可能性を可能性のまま終わらせない。その意味が問われています。

行政が民間の事業の何をわかって、何を目指すのでしょうか?
地方に必要なのは、古い考えの既得権益者のみで行われるワンマン改革は、一過性の変化でしかありませんでした、この29年間の実績と結果で分かりきっています。
新たな時代に則した島の環境の「常識」を作り、成果を出す人材が必要であり、雇用を生み出すなどと言い、既得権益者事業へ労働者を増やす発想なんてヤバいんです。
過疎では自立支援こそが事業を新しく行う若者に、既得権益者や行政から与えて欲しいのが権利と支援なんですよね。
 
ぼくの考えは移住当初からまったくもって変わらない、地域の長を見たり聞いたり覗いたり関わったりし、この確信は強固になっているので、あらためて書いておきますね。
 
まず行政マンってそんなにすんごい能力や知識や経験があるんですか?
最近島内事業所を集めて、活性化のための観光中心の意見交換やらやりたい行政・・・・
70代の女性島民を島のボランティアガイドなどに積極的ですが・・・どうなんでしょ?
活性化や商売繁盛、地域観光地化の「ため」にって意味だろうけど昭和の時代の方々ですよ?
交流人口を題目にしてますが、お金を落とす場所がないので経済的な効果はないんですよ。
 
観光の活性化は地域住民が求めてますか?
商売繁盛売り上げ倍増などはどの事業所さんが求めているんでしょうかね。
助成金やら長崎市からの委託管理事業など、忙しくても暇でも受託金は変わらずであり、ならば暇のままでと・・・悪しき委託事業の弊害ですね。
赤字でも誰も痛まない、ただプレッシャーだけで毎年同じことの繰り返し、税金に関わる方々は本当の痛みや、苦しみのアイデアなど理解できないでしょうね(苦笑)
「観光地化は島民にとってチャンス!」なんて言ってますが、島民のなにがチャンスなんでしょうか?
ビジネスチャンスや多くの来島数あてに企画? 新商品?
笑わせる、普段から島民や旅行者を満足させることすら達成してなくて、なにがチャンスなんだと思っています。
 
行政マンがやってることは、僕はつまらないんです、なにもかもぜんぶ(笑)
口先だけの責任取らずで部下を責め、自ら反省も痛みもしないんだから無理です信頼なんて。
都合の悪いことはしらんぷりや人のセイで言い訳ばっかり・・・・その体質のギョウセイマンはダメなんです。
そんでもう、やること言うこと全然面白くないんです。
嫌いな団体ならやらない理由を正当化する言い訳が素晴らしい(苦笑)
ぼくは本当に、行政マンの意見で本当に「面白い」と思った会議はがありません。
飲食店経験など自営が長い私ですが・・・・
 
ある時サラリーマンが分かったかのように「もっと宣伝すれば」「美味しい、いまどきの料理を」「雑誌やテレビで取り上げてもらわないと」などなど、現場で働く若いスタッフでさえ笑っていました。同じように感じます行政マン思考。
だってね先の先を考えて「行動」してるんですよお店は、他人の思いつきで動けますか?
自前のお金で自分の責任においてやっている事業ですから、他人の目にどう映ろうが気にしてないですよ。
 
なにより失敗しても責任取らない、数年後移動でいなくなるかたがですねぇ~、いっちょまえに「商売商売」って・・・・(笑)
商売=儲け・・・過疎の限界集落でそういうレベルの方とはお話をしたくないんです、ハッキリいって、時間の無断なんです。行政マンは安定」と言われ就職されたんですよね?
安定を求めてんのに、人には挑戦を?
そんなんだから集まって「企画会議」とか、なんか具体的じゃないし、つまらないと思うんですよ。
行政マンは「攻められない」です、だから押し付けるんですかね地域の人間に。
行政マンは働く仲間や、同僚を、地域権力者を、そして自分を、守らないといけませんからね。
あなたがたはいつも「まぁ~まぁ~まぁ~」の事なかれ主義で誰も傷つけることができません。あっ!
昨年からある約束の謝罪をするといって投げっぱなしだし、お願いも2年間堂々と投げっぱなしです。
 
すべての責任は「長」にあるんですよ、個人的なトラブルと思っているから、ぼくにリテラシーが低いなんて言われちゃうんですよ。
あとね本を読んだり、教材的なDVDとかで活性化?
本を読んで成功するテクニックが書いてあると思っちゃっていることに終わってます、だいたい書いてませんからそんな大事なことは。
学生時代の参考書レベルの感覚で本を評価している成人なんでしょうね。でもねそんなビジネスの領域の「テクニック」は今終わりかけているのですよ。
さらのその先を行く次の変化に理解はギョウセイマンでは無理でしょたぶん10年は確実に遅れてますもん中央と比べて。
この島は「壊れたバケツに一生懸命水を入れている」ことに、いまだ気がついてない。
会社員である行政マンと会議をしても、地域の癒着やパワーバランスに邪魔され、知的じゃなく力学的な会議など興味ないですよ。
そしてあなたがたはお茶を濁し、何一つ結果を残せず、会議を行った実績だけで満足なのです。
そんな時間は僕らにはありません・・・・。
 
なによりも、こちらの進化への対応が遅すぎるんです。
行政マンの対応の速度が遅いんです。
いつまで2年目のこと言ってんの?ってな感じなんですよね。
2~3年で活性化とかなにを手土産欲しがってんのかなぁ~としか思えない、焦ってんですか?まぁそりゃそうで、「毎日8時間の仕事人」「29年間立ち止まっている島民」と、「730時間島民」は、あなたがたの2年とは違うんです。
 
こういったことが、島民の既得権益者も含めて見えていない、昔からの島民の29年の苦悩は僕ら新移住者は2年あまりで気がつき、その手を打っているんだが、その変化が見えないんでしょうね。ぼくら新しいライフスタイル移住者は、一日中家族の幸せや島の生活環境のことを考えています。
毎日商売や売り上げや現金数えているわけじゃないんですよ(笑)
毎日この島だけで生きているので、人生の場所としての理解やなにをすべきか思考スピードも上がります。
ぼくらは今や、1日楽しく生活しながら、こう見えて収入がきちんとありますし、いろんなことへのアプローチを水面下で行っています。
行政にいちいち報告も必要ないですし、狭い島とはいっても自営は自営ですからね、行政からとやかく言われるスタンスで事業を行っていないのです。
毎日真剣ですから、不便な島だと嘆く普通の島民の方々とは、新時代の島暮らしの上達のペースは違います。
10年先を見ながら動いてますからね。
 
私はこの島に来て、既得権益者や行政マンが謙虚に変わらないといけないとずぅ~っと言っています、29年間の責任を感じて、あなたがたの変化を望んでいるんです。
いつまでたっても成長しなかったら、僕らも飽きるじゃないですかあなたがたを見ていて。
生活の場所だから考え方や生活スタイルを変化させなければ、成長しないし島暮らしの生活が面白くないですから。
 
ギョウセイマンのあなたがは主人公にはなれません。
あなたはいつまでたっても脇役か、傍観者なんですよ。
みんなと同じようなことしか言えないあなたと私の違いを書いておきます。
よく読んでください。
 
私たちは商売するためにこの島に来たわけじゃない
今の島の環境をしっかり調べてから、未来を想像して来ていますよ。
過疎や限界集落の島に来たわけですから、言い訳などありませんし言いませんよ「今までの島民と違うこと」を求めてんですから。
そして活性化や商売の島のことよりも家族や仲間の幸せと安心安全な生活環境になってほしいと日々考えています。
 
何度でも書きますが「原発事故」と「東日本大震災」を経験し社会的ハンデを乗り越えて来てるんですよ。
 
あなたがた「ギョウセイマンは普通なんです、どれだけ頑張っても他の人と同じようなことしか思いつかないんです」活性化や商売繁盛店を作りたいなら、自分が楽しく面白くないといけません。
あなたがたのプランがこの島で楽しい生き方を提案していれば、あなたがたに少しは興味が沸いたかもですね。
あなたがた勤め人の生き方は保守的であり、大衆的でつまらなければ、どれだけ技巧を凝らしても、私たちのような楽しい人材の宝庫にはなりません。
 
一発なにか成果があればあなたがたの職場それでいいのかもしれませんが、私たちは常に成果を出し続けなければいけないのですよ。
だからテクニックレベルの話は飽きています、本質を探しているんですから、あなたがたのまやかしなど興味ないです。
ギョウセイマンって、別にぼくらが応援しなくても生きていけるんでしょ?
ぼくらはこの島で生きていこうと決めたのです。
仕事があり生活が安定して『飯が食えること』ではなく、この島で生きると決めた覚悟で生活をしています。
生きるためのアイデアならたくさんあります。
そしてなによりも、この環境の中で生活を選んだぼくには応援してくれる方がたくさんいます。
「応援される」という要素は重要です。
頑張っている存在であれば応援されるし、応援されればさらに楽しく面白いものを作れるようになります。
安全で安心で安定した立場にいる、あなたがたは応援も期待もされません。
そりゃそうでしょう。
「この島のために」「この島の活性化をと思っているんです!」という人が、「ギョウセイは辞めません」ですから・・・・。
過疎の島暮らしは理屈じゃなく小手先でもなく、本気で生きることなのです。

平成27年9月12日 木村 

 「ゴマすりコンサルタント」採用も致命傷に 

 木下 斉 :地方再生人、内閣官房地域活性化伝道師 2015年08月18日 

なぜ地方は「好き嫌い」で物事を決めてしまうのか。地方だけに限らないが、この深刻な問題を解決するにはどうすればいいのか。今回は、地方活性化の障害になる「トンデモ意思決定」(ひどい意思決定)がなぜ起きるのかについて、考えてみたいと思います。この連載では、毎回のように地域活性化における問題点をとりあげていますが、中でも活性化の成否を決める意思決定にかかわる問題は、非常に重要です。しかし、「なぜ地方は厳しい現実を直視できないのか」でも触れたとおり、実態は、人が減少しているのにもかかわらず、実効性のないバラ色の計画が平気で立てられていたりします。また、巨大な商業再開発を行ったり、財政が厳しいといいながら豪華な庁舎を建て替えたり、交付金でプレミアム商品券を配ったら東京資本のチェーン店に流れて終わったり・・。
このように、後からみれば「なんでこんなひどい計画を」と思えるような馬鹿げた話が多発しています。

誤った意思決定には、必ず「好き嫌い」がある

もちろん、新国立競技場のケースでもわかるとおり、こうしたトンデモ意思決定は国や大企業でも常に起こっています。では、なぜこんなことが多発するのでしょうか。結局、論理的な意思決定よりも、情緒的な意思決定がいまだに尊重される土壌があるからです。これは大都市よりも地方で起こりやすい。地方では、地縁や血縁がどうしても濃くなりがちだからです。私が商店街活性化の取り組みにかかわってから最も驚いたことの一つは、「あいつの爺さんは、ウチの店の邪魔をした」といったような、「世代をまたがった恨みつらみ」を受け継いでいたりすることです。
個人的に因縁としてもっているならまだしも、公的な立場で利害を調整する役割が期待される商店会長などが、個人的な人の好き嫌いで意思決定を変えてしまいます。これには、かなり驚いたものです。
地域の取り組みにおいて、物事を見るのではなく、発言をした人の好き嫌いによって「良し悪し」を判断するところがあるのです。
例えば、実行すると絶対に元が取れないような案であっても、「あの人が言うなら仕方ない。やらせてみよう」といったような形で承認されたり、逆にせっかく有益な提案があっても「あの人は先日、自分の案に反対したから絶対に反対する」などとなってしまったりするのです。
好きだから「良い」、嫌いだから「悪い」となるので、実はどちらに転んでも大変なことになります。しかも、こういう「情緒的な意思決定」による失敗に対して、「人間だから仕方ないね」などと寛容な人が結構多くいます。つまり、誤った意思決定に対しての反省をしないので、間違いは何度も繰り返されます。
 「論理的反証」を許さない雰囲気ができた時点でアウト
さらに困るのは、好き嫌いで賛成反対を決める人がいるだけでなく、「同調性が高いグループ」になってしまい、異なる観点からの論理的反証さえも許さなくなることです。<br>何事も情緒的に受け取るため、数字をもとにした議論さえ「単なる反対」としか受け取らなくなってしまいます。
地域を活性化するための計画が、しっかりした計画なのか、トンデモ計画なのかは、数字をもとにした議論をすればすぐわかるわけですが、「まちづくりは、お金ではない!」などとよくわからない精神論を語りだし、論理的反証を潰していってしまいます。
本来、トンデモ計画は論理的に検証し、事前に数字を見ていけば不可能であることがわかるプロジェクトばかりです。
例えば再開発ビルを建設するといっても、毎月のビル運営にかかる固定費が高すぎる一方、テナントから受け取る賃料設定が地元の相場とかけ離れていたりします。
これだと計画時点でテナントが集まらない可能性が高く、収支は赤字が濃厚。なのに再開発にゴーサインが出たりします。
また、最近地方自治体ではやりの図書館もトンデモ計画になりかねません。財政力を考えたら、図書購入費を捻出できなくなるような高級図書館開発であったりします。
全て数字で見ていけば、持続可能なのかどうかがわかります。
しかし、数字をもとにした問題の整理を提案すると「彼(彼女)は活性化の邪魔ばかりする」とか、しまいには「否定的な意見ばかり言わずに、どうやれるのか提案したまえ」という有難いご指導までいただいて、二度と呼ばれなくなるわけです。
その結果、論理的な人ほど地域における意思決定にかかわらなくなり、時には、その地域を離れていくことにもなってしまいます。結果、ますますもって同質性をもった異論のでない、勢いだけをもった計画が暴走していきます。
最近は、地方活性化をするといった場合、外部の専門家の協力が当たり前になってきました。
しかし、これも曲者です。
地域外から関わる人材の選出についても情緒性をもとに行われることが少なくありません。「あいつはウチの地域によく来て、地元の参加者からも評判が良いし、話がわかるやつだ」といったようなことで、人選が決められます。
情緒だけの「ゴマすりコンサルタント」を雇うな
「ゴマすりコンサルタント」たちは、このような地域の情緒性を手球にとって地域に関与していきます。
例えば「この町は全国で一番綺麗な◯◯がある、この町は世界でも有数の◯◯がある」といった「綺麗なストーリー」を並べて改革にかかわる参加者をモチベートします。このような「大した根拠はない、だがあながち嘘とも言えない」情緒的な内容は、地域の意思決定に関与する代表者たちにも好まれることを、彼らはよくわかっています。
地元の情緒的な意思決定に逆手に取り入る外部コンサルは、空気を読みまくって、配慮に配慮を重ねていくわけですが、当然ながらこうした人たちにまかせると、事業の成果は出ません。
なぜでしょうか。
事業の成果を出すことではなく、プロセスで皆に気に入られることのほうが、その人のビジネスとしては合理的だからです。
そもそも衰退地域の課題は、他の地域との競争であったりします。<br>地域内で情緒的に支持されたところで、どうにもならないのです。
しかしながら、これまた厳しい話を言えば外されるということで、できるだけ情緒的な内容を示して、ゴマすりをしたほうが得策という話になります。
結果、成果の出ない「都合のいい人」に地域の貴重な予算を任せてしまい、その地域はますます衰退していきます。
このように、情緒的な意思決定が基本になっていると、トンデモ計画の立案→論理的反証(チェック)なし→外部からも情緒性に沿うような人間が集まる→計画はどんどん進行、誰も個人では止められなくなるというプロセスが進行します。
では、こうした暴走を止めるにはどうしたらいいのでしょうか。
そのためには、地域活性化のプランについて、定量的議論の機会と、柔軟性の確保について「初期段階」で確認するのが大切です。
どういうことでしょうか。
人間が取り組むのだから、情緒性を完全に排除することは困難かもしれません。
しかし、せめて論理的・定量的な議論を定期的に行うだけでも、かなり暴走は止められます。
活性化にかかわる関係者が出すそれぞれの意見も、単に感想ではNGとし、数字をもとにした内容にするのです。
また、出された意見も、数字で計算して検証してみれば、それが可能であるのか否かよくわかります。
例えば「図書館構想」を皆で議論してプランを練るとします。それを作るにはいくらの予算が必要で、維持費はどれだけかかるのか。1冊あたりの貸出コストはいくらで、1世帯あたりの負担はいくらなのか。施設維持費はいくらかかり、図書購入費はいくら程度になるのか。数字で見ていけば、議論の熟度は高まります。
このとき、勝手に情緒性を優先させて、希望的観測にもとづいて作為的な数字の作り方をしては全く意味がありません。ここはあえて批判的にやってみるというのが大切です。また、何事も一貫性よりも「柔軟性」を優先することを最初から確認しておくことです。初期段階から検討を進めていったほうが情報は集まり、分析も熟度が高まっていきますので、物事は変更されて当然なのです。

数字と向き合い、「群れないリーダー」を確保せよ

しかし「定期的に抜本的変更を加えること」を最初に宣言し、確認して進めないと、個々人の面子や人間関係を理由にしてズルズルと「初期の無理な計画」の検討が続けられてしまいかねません。そして「後戻り不可能なタイミング」に至ってしまい、「ここまできたらやってしまおう」、といったような話になって、トンデモ計画が実現されてしまうのです。こうした「定量的議論」と「柔軟性確保」のルール化は、どんなに取り決めておいても煙たく思う人は少なくありません。
このルールをその都度確認して進めることは、マネジャー(計画のまとめ役)にとって、非常に孤独な作業になることもしばしばです。<br>逆にいえば、地域でのプロジェクトを率いていく人材には、その孤独と向き合うことが必要だと言えます。
>情緒に任せ、内輪受けで盛り上がりながら、プロジェクトが失敗しても単に傷を舐め合うだけの「仲良しクラブ」では、真に地域を変えることはできないのです。
たとえ自分個人が損をしたとしても、ダメなものにはダメとストップをかけ、修正するべきものは修正する。
それが本当に故郷を愛することではないでしょうか。

地方創生に必要なのは、「おカネ」ではない 

木下 斉 :地方再生人、内閣官房地域活性化伝道師 2015年01月07日 

「シャッター通り」を活性化しようと、いたずらに補助金を投入しても衰退が進むだけだ。
それはなぜなのか?
前回のコラムでは、「リアルな地方創生は補助金に頼らない」ということを書きました。
多くの読者の方々から「納得できる」「参考になった」といった感想をいただきました。
では、なぜ補助金をもらうと、地方に活力が生まれないのでしょうか。<br>今回はその基本原則について取り上げたいと思います。
タダでおカネをもらえれば活性化しそうなものですが、ズバリ、地方創生に必要なのは「おカネそのもの」ではなく、「おカネを継続的に生み出すエンジン」なのです。
安倍政権が、地方創生を目玉政策にする以前から、地方には莫大な予算が、さまざまな名目で配分されてきました。しかしながら、成果がまったくでない。
なぜ何兆円もの資金を、地方の活性化目的に配分しても活性化しないのか。
その理由は、結構シンプルです。
つまり「利益」を出さない、いや税金を使う=「利益を出せない」事業ばかりだからです。
中央からカネを送っても、1サイクルで終わる地方活性化地域活性化は、単なる「所得再配分」では達成できません。
東京より地方のほうが割をくっている、だからその分を、再配分しようと配ったとしても、それだけでは地方は活性化しません。
なぜならば、配ったその途端に、その事業に必要な各種経費として消えてしまい、それで終わりだからです。
「1サイクル」(1回転)しか、経済が回りません。
その経費の一部が人件費として各地域の人に配られるならば、まだましですが、地域の外などに外注してしまえば一度来た予算は、別の地域にいってしまいます。
なんといっても問題は、一度使ったらそれだけで終わりです。
もう2度と同じような効果を生み出すことはできません。
たとえば商店街が、国の予算などを使って大手代理店などに外注して、格好のいいポスターをつくってもらったり、大規模なイベントをやったところで、一度やったらもう終わりです。
しかも、その予算は地方雇用の代理店の社員の「給与の足し」になり、利益は東京にもっていかれるだけです。
公共施設の開発でも、大規模な建設事業は、大手ゼネコンが取得して、下請けくらいは地元企業へ分配されるでしょうが、やはり、地域内経済でみると、そのわずかなおカネが一回し(ひとまわし)されるだけで終わりです。<br>地方活性化事業に予算を出すことを「砂漠に水を撒く」とか「カンフル剤」といったものに例えられたりするのは、これが所以です。
つまり、問題は「一回しで終わってしまうという、構造そのもの」にあります。
「利益」と真正面から向き合わない、「予算型活性化事業」地方に必要なのは、一回しで終わらない、一度資金を入れたらそれをもとに、地域内経済を取り込んで回り続けるエンジンです。
投資した金額をもとにして利益が生み出されて、はじめて継続的に市場が生まれ、その市場を相手にした事業で、人が雇用され、彼らが地域でさらに消費を生み出していくという「好循環」が求められているわけです。
もし、継続する事業があれば、立ち上げに投じた資金も、1回だけの金額だけで終わらず、毎年雇用を生み出し、利益を生み出し、さらにその地域を活性化させる「再投資」を地域内で行うことができます。そうしていくうちに、エンジンはさらに強化されて、地域内経済だけでなく、地域外経済も対象にした事業に発展していく可能性があります。これが地域の発展につながります。
では、地域の衰退とは何でしょうか。
それは、経済問題に端を発しています。
「仕事がない」→「仕事がないから人もいなくなる」→「人もいなくなるから、ますます仕事がなくなっていく」、という負の循環をいかにして断ち切るかしかありません。
そのためには、利益を生み出す事業と向き合わなくてはなりません。
その際、「利益を出す」というと、搾取的な発想をする人がいるわけですが、それは大間違いです。
誤解を恐れずに言えば、そもそも、利益が出ないというのは、誰もその事業に対価を支払たくないと思うような内容の可能性があります。
恐喝や詐欺をするのではなく、真っ当な事業で利益を出すためには、効率的なやり方をしていかなくてはなりません。
利益が出ないようなことばかり続けていると、前出のように、地域の経済がいつまでたってもプラスにはなりません。
いくら資金を投入しても、常に減るだけでプラスにならない、循環もしていかない、足りなくなったらさらに投入せざるをえないという構造になり、活性化とは程遠い状況になります。
地域活性化が「公共性がある→補助金を出す→利益は出していけない」という概念に基づいてしまっていては、限界があります。
これでは難しい。
行政が関わった途端に、官民両方が根から利益は出ない、出していけないという固定観念も未だ強いです。
とある自治体の研修で「金儲けを考えるいやしい民間が嫌だから、役所にきた」と、言われたことがあったりもします。
民間は民間で「地域活性化は利益が出ない、行政の仕事」だなんて普通にいってしまったりします。
税金を用いた活性化事業の限界は、利益を出してはいけない、出せないという、その資金の性質と諦めで縛られてしまっているわけです。
逆に言えば、すべてとは言わないまでも「利益を出せないような活性化事業は、すべて止めてしまう」くらいの、思い切った意思決定が必要なのです。本当に活性化を目指すのであれば、です。
単に人が集まることや、メディアに取り上げられることでも、一過性の経済効果を謳うことではダメなのです。
「地域で資金を回し続けるエンジンを作り出すこと」、すなわち「しっかり利益を出すこと」でしか、地域の持続的な活性化なんて不可能なわけですから。<br>&nbsp;<br>民間主体で利益と向き合わないと、出口はない
しかし、ここで矛盾がありますよね。
普通に儲けが出るのであれば、普通に地域の個人や銀行から資金調達をして、取り組むことが可能ではないか、と。税金をもらってまで、活性化事業なんてやらなくていいじゃないか、と。
まさに、そこです。
地域活性化に取り組むという名目で資金が流れ、その一回しのシステムの中で食っている人たちにとっては「税金での地域活性化」は不可欠です。
しかし地域全体においては、その効果は全く波及しません。
「成果を出している事業は、補助金に頼らない」というより、補助金に依存した段階で、もはや「衰退の無限ループ」にハマってしまうわけです。
地方創生に必要なのは、資金調達が可能な事業開発であり、民間が立ち上がって市場と真正面から向き合い、利益と向き合って取り組むことが必要です。
成果をあげているのは、民間が立ち上がり、事業を推進している地域ばかりです。
そもそも行政は、利益を出すことなど、やったことがないし、そんな目的で作られていません。
政治も同様で、分配の内容やルールこそ決めることができても、稼ぎを出す集団ではありません。
つまりは、民間が立ち上がるほか、地方が活力を取り戻すなんてことはないのです。
逆にいえば、民間が「そんな損することなんか、わざわざやってられないよ」、「やはりリスクは行政に負ってもらわなくては」などと言い出して、地元での事業開発に取り組むことを諦めたら、再生することは基本的にないとも言えます。
「地域活性化は政治・行政の仕事だ」、などと本気で思ってはいけません。
それこそ、地方衰退のスパイラルに根本的に犯され、「衰退の無限ループ」から逃れられないのではないでしょうか。

いまどきの公園は自ら稼いで街を潤す 

木下 斉 :地方再生人、内閣官房地域活性化伝道師 2015年08月04日 

「世界一美しいスタバ」は、実は日本にあるが、さてどこに?<br>「稼ぐ公園」の考え方は、徐々に日本でも浸透している。
今回は、皆さんの身の周りにある「公園」について、考えてみたいと思います。
地方で「ある一定のエリア」を活性化するときには、個人など民間が保有する自宅や事業資産(ビルや田畑など)と共に、行政が所有管理している土地や施設などを「どう効果的に活用するか」が課題になってきています。
公園は「禁止」だらけ、何もできない空間にしかしながら、日本の公共資産は、戦後一貫して「排除の上に成り立った公共性」によって成立してきました。
どういうことでしょうか?
つまり、ある一部の人のたちの反対があれば、その反対を聞き入れ、禁止に禁止を重ねていった先に、最終的に「誰もあまり文句を言わないという意味での公共性を確保する」といった運用になってしまいました。
せっかく有名建築家に依頼して設計された公共施設でも、入り口から「赤いカラーコーン」(工事現場などで見かける円錐形の器具)が並び、壁にも「◯◯禁止」というビラが山ほど貼られています。
その中でも公園などは多くの遊び方が事実上禁止され、何もできない公園も増加しました。
本来は多くの人が利用できるために作られたはずが、「何もかも禁止」という悲しい状況にあります。
そのような禁欲的な空間は、地域を活性化させるどころか、むしろ荒廃して周辺エリアの価値を奪う空間にさえなっていきます。
今後、地域の活性化を考える上では、「減点評価方式」で公共財産を捉えるのではなく、「加点評価方式」で公共財産のあり方を考える必要が出てきています。
「世界一美しいスタバ」は、富山にある
すでに、この「加点評価方式」で公園を運用している場所はいくつもあります。
代表的な場所を3つ紹介しましょう。
皆さんは夏のシーズン、日本で一番気持ちよいビアガーデンはどこだと思いますか?
私は毎年札幌の大通公園で開催されているビアガーデンこそが日本一だと思っています。
そこでは、街区(丁目)ごとにサッポロ、アサヒ、キリン、さらには外国産ビールなど各社が競う巨大なビアガーデンができ、多くの利用客で賑わっています。
夕方以降は、顧客はこのビアガーデンからまちの飲食店へと流れます。
また、各事業者が支払う利用料は、福祉財源として活用されています。
富山市の富山環水公園は、もとから立派な公園ではあったのですが、言ってみれば、市民に大人気、というほどではありませんでした。
しかしスターバックスコーヒーが開業し、2008年グループが主催するストアデザイン賞で最優秀賞を獲得すると、一躍「世界一美しいスターバックス」として有名になりました。
今では地元住民が誇らしげに訪れる場所になっています。
さらにその後フレンチ料理店が公園内に出店、最近もおしゃれなアパレル店などが周辺に出店するなど、エリア全体のイメージがどんどん向上しています。
岩手県紫波町のオガールにあるオガール広場は、あえて法律や条例規制の多い公園の扱いではなく、「広場」という用途になっています。
緑地だけでなく、お休みスペース、バーベキュー設備といった火気類の設備も整備され、週末などは大いに賑わっています。
この10年ほど、日本でいう自治体の公園緑地課にあたる、ニューヨーク市パークマネジメントが熱心に進めているのが「公園コンセッション」(コンセッションは免許や営業権などの意味)です。<br>公園コンセッションとは、公園の一部での営業権を入札し、その収入によって公園の品質レベルを引き上げていくという取り組みです。
マンハッタンの比較的小規模な公園であるマディソン・スクエア・パークには、オーガニックやコミュニティをコンセプトにした「シェイク・シャック」というハンバーガー店が出店しています。<br>この店も同公園のコンセッションで落札した企業によって経営されているのですが、あまりの人気で周辺エリアにも支店をその後出店していき、そして今年1月にはついにNY証券取引所に上場を果たしています。
これら企業への公園コンセッションにより、ニューヨーク市パークマネジメントでは歳入が増加し、四季に合わせた植栽の管理や子供用遊具の整備を含めて、公園管理を税財源以外で充実させることが可能になっています。
NY市がパークマネジメントを行っている公園の一つ、ブライアントパーク。<br>2014-2015の冬シーズン、米金融大手のバンク・オブ・アメリカが公園の営業権の一部を買い取り、スケートリンクを営業。<br>公園は大いに賑わった「ダサい売店」ではなく、このような高品質なテナントが入ることでエリア全体の価値もあがる。さらに歳入増加で公共サービスも充実されるという好循環が生まれています。
「日比谷公園」と「松本楼」の関係から、明治の知恵を学ぶNY市の取り組みを褒めてきましたが、実は、この話は特段アメリカに学べというわけではありません。公共資産を充実させる上で、事業性と両立させながら組み立ててきた知恵は昔から日本にもあります。<br>例えば、誰もが知っている、東京の千代田区にある「日比谷公園」です。
近代的な西洋型公園を目指して作られた日比谷公園(1903年開園、約16.1万平方メートル)には、西洋花壇、レストラン、音楽堂が開園時から整備されました。<br>そして、そのど真ん中にはやはり開園時から「松本楼」という老舗フレンチレストランがあるのはご存知でしょうか。
小坂梅吉という個人が入札で落札し、現在も小坂さんの子孫によって経営されています。
明治時代の東京市の公園は独立採算性が高く、松本楼のようなテナント入札と共に、池でのボートの貸し賃や音楽ホールの入場料など多角的な収入で建設・運営に掛かるコストを捻出したのです。
これは、単に財政的制約だけでなく、ヨーロッパの公園のように多くの市民にとってその場所が価値を持つような素敵なレストランやカフェや野外音楽堂という付帯機能を併せ持つことで、周辺エリアの価値をも引き上げるような公共財を目指したとも言えます。おカネがないからこそ、生まれた知恵と価値とも言えます。
今、国や地方自治体が保有する公的不動産の価値は、約570兆円(国交省発表)と言われています。
これまでは公共関連資産は「税金で作り、税金で維持する」ということを前提としているため、これらの資産を積極的に活用しようという話は、一部でしか議論されてきませんでした。
民間が公的資産を使い、公共サービスを改善する時代
しかし人口縮小社会となり、財政難で公共財産の管理予算は先細ってきています。<br>市民の特定利用はできるだけ排除してきた公共空間の運営方法に終止符を打ち、新たな公共資産の活用方法に目を向ける必要が出てきています。<br>公園一つとっても、まだまだできることは山ほどあります。
その一方で、民間活用というとすぐに指定管理の手法がとられがちです。
これは、民間企業などに包括的な業務委託を可能にする制度ですが、ともすれば丸投げすることになったりします。それでは結局行政の支出が多少減るだけで、意味がありません。
行政側は、その上で多くの人に向けた公共サービスの充実にその歳入を活用する。正常な行政と民間の関係はこの形だと言えます。
もちろん、公共資産の全てを事業活用するなどということまでは必要ありません。
しかし、570兆円の資産のうち、もし1割の約60兆円でも有効活用されれば、公共サービスはさらに充実させる可能性があるのです。
従来の公共資産の運営方法を今一度見直すことで、人口縮小社会でも公共資産の管理やサービスの維持を諦めず、発展させることさえ可能なことが多くあるのではないでしょうか。
 

道に迷うことがある。
先に進むのが怖くなる時もある。
嫌なことだけが心を支配し、生きることの喜びを感じられないこともある。
だがそれはあなたに限ったことではない。
見落としているだけで、ちゃんと見ようとしないだけで、毎日どこかに必ず幸せが潜んでいる。
この世に生を受けた時点で喜びの数も悲しみの数も、おなじ分だけ必ずどこかに隠されているのだから。
足元を照らすか、正面を照らすか、後ずさりするか、前に進むか、その選択はすべて自分次第。
リモコンは今、自分がもっているのだから。
それでもそのリモコンのアリかがわからなくなってしまった時、先人たちの言葉からその位置を探し出そう。

1.現状に幸せを感じること

悲しいことに、この世では実に多くの人が自ら幸福を遠ざけている。
そういう人は無意識に、いつも「いつか幸せになれる」と自分自身に言い聞かせているのではないだろうか?
幸せとはそのうち訪れるものと思い込み現状には決して満足できない。
「すべての支払いが終了すれば」幸せになれる。
「学校が終われば」幸せになれる。
「仕事がみつかれば」幸せになれる。
「昇進すれば」幸せになれる。
そしてそれは永遠に続く、「結婚すれば」「子供ができれば」「二人目の子供ができれば」。
子供ができればできたで、子供が幼くて自由がなくなる。
「もう少し成長してくれれば」幸せになれる。成長したらしたで、思春期は難しい、と悩むことになり、「これを乗り切れば」幸せになれると思い込む。
その後は、「退職後に素晴らしいバケーションにいければ」「もっとすてきな車を購入すれば」と、いつまでたっても幸せを追い求めることとなる。
人生は常に進化している。
この瞬間、「今」こそが一番幸せな時なのである。<br>今は幸せじゃないというのであれば、いつになったら幸せになれるのか?いつになっても、なんらかの懸念や困難はつきまとってくる。
だから、それに抵抗してもがくよりも、幸せなんだと認めることの方がよっぽど有益ではないだろうか?

2.死は恐れるに足りず

死は恐れるものではない。
私はこの世に生まれてくる前に何十億回も死んでいる、そしてその時に苦しみや不幸などはまったくなかった。
 
マーク・トウェイン 1835年11月30日 - 1910年4月21日(サミュエル・ラングホーン・クレメンズ) 
             

3.どっちに進んでも同じ

 「チェシャ猫さん、どっちの道を行けばいいのか教えてくれるかしら?」
「どこに行きたいんだい?」
「それが、よく分からないの」とアリスが言うとチェシャ猫は「なら、どっちの道を行こうと同じさ。」と答えた。
4.あなた自身が心である
あなたは体を持っているだろうが、心は持っていない。
あなた自身がその心なのだから。
ルイス・キャロル 

5.幸せに気がつこう、幸せを感じたら声に出そう

幸せを感じていることにどうか気づいてください。
幸せだと思ったら、大声で叫んだり、つぶやいたり、考えたりしてください。
「これが素晴らしいことでなければ、これは何なのだろうか」と。

6.我々はすべて地球の乗組員である

宇宙船地球号には乗客など存在しない。
我々が皆、乗組員なのだ。
ハーバート・マーシャル・マクルーハン(カナダの社会学者 1911-80) 
 ※宇宙船地球号とは:地球を、限られた資源しかもたない宇宙船に例えた語。
環境学・経済学などで用いられる概念。
スペースシップアース。
米国の建築家フラーの文明論“Operating Manual for Spaceship Earth”(1960年刊)で広く知られるようになった。

7.物事も人も絶えず変化する

同じ川を二度渡った人間なんていない。
川の状態も、その人間の状態も常に変化しているのだから。

8.他人を見る目と自分を見る目は異なる

我々は、自分については、その意思によって判断するが、他人については表面の行動でしか判断しない
                スティーブン・R・コヴィー 

9.死ぬことができる幸運

「死」が待っている私たちは幸運だ。
なぜなら、生まれてくることができなければ、決して死ぬこともできないからだ。
日の光を見ることもできず、サハラ砂漠の広大さも分からない。
生まれてくることができなかった人たちの中には、偉大な詩人キートや、偉大な科学者ニュートンよりも偉大な人がいたかもしれない。
DNAによる無限の組み合わせで誕生できたかもしれない人は、実際に生存している人の数をはるかに凌ぐ。
当たり前のように生きている私たちは、これらの驚愕するような確率の中から生まれた。
それが、あなたであり私なのだ。
                リチャード・ダーキンス 

10.体験こそが神秘である

人生の神秘は解き明かすような問題ではない。
実際に体験してみるものである。
 フランク・ハーバード 

11.毎日新しいことに直面する喜びを知ろう

あなたがいま心地よく感じている環境は、以前は未知なものだったはず。

12.石橋を叩いても渡れないなら死んでいるのと同じ

もしあなたが、人生において “安全” を最優先の検討課題としてとらえているなら、どんな状況であれ、一人で長いハイキングをすることなどやめるべきだ。
短いハイキングでも危ない。
つまるところ、どこであろうと一人では行くべきではない。
ドライブや、恋に落ちることや、死んでいる細菌があふれている空気を吸う事など、無謀な行為は必ず避けてるべきである。
着るものはすべて天然素材(ウール)にし、今の生活が半分不自由になるとしても、考えられるすべての不慮の出来事に対し、所有している家財道具をすべて保険にかけろ。
何キロ先まで車が一台もいなくとも赤信号は決して渡らないほうがいい。
そして、当たり前だが、今まで信じてきた事を脅かすような好奇心や考えは決して持とうとするな。
そうすれば、あなたは自分が安全だと分かっている世界の中で十分長生きするだろう。
しかし、あなたは死ぬ直前に発見するかもしれない。
もう、すでに死んでいたのだと。
ずっとずっと前から…

                via:cavemancircus・原文翻訳:melondeau 

7月5日に世界文化遺産への登録が決定した「明治日本の産業革命遺産 製鉄・鉄鋼、造船、石炭産業」。
8つの構成資産がある長崎市では、「軍艦島」こと長崎市端島を中心に見学者が増加。上陸見学ツアーは、予約が殺到し、数カ月先まで空席を探すのが困難な状況になっている。
一方、端島と同じく海底炭鉱の島である長崎市高島町の構成資産「北渓井坑(ほっけいせいこう)」の状況はどうか。現地を訪れた記者が目にしたのは、「軍艦島」と比べるまでもない、閑散とした状況だった。

世界文化遺産を独り占め?

英国商人トーマス・ブレーク・グラバー氏が西洋技術を用いて開発した「北渓井坑」は、日本初の蒸気機関による巻揚機や、入気・排気の構造が導入され、その技術が端島、筑豊、三池などの他の炭坑へ伝わり、急速な近代化を支え得る出炭量の増加につながったとされている。すなわち、「北渓井坑」は、「明治日本の産業革命」における「出発点」。<br>そのストーリーを語るうえでは、欠かせない存在と言える。
記者が現地を訪れたのは、世界文化遺産登録の熱狂が冷めやらぬ7月16日。高島港でレンタルした電気自動車を5分程度走らせ、「北渓井坑」に到着した。付近には人の気配はなく、もちろんガイドもいないが、案内板の説明に従い、携帯端末からWiFiに接続すると説明動画が視聴できるようになっていた。何も示すものがなければ、「井戸」と言われてもすんなり信じてしまいそうな「北渓井坑」だが、現代の技術を用いた無人化対応により、世界文化遺産の構成資産を独り占めできるという貴重な体験を満喫できた。
「世界文化遺産に登録されたことは嬉しいが、今の状況では、正直、胸を張って見学に来てくださいとは言いづらい」とは、地元の声。
「北渓井坑の近くには、グラバーさんの別荘跡もあるが、景色はいいものの、長く滞在できるようにはなっていません。
その別荘を復元するとか、高島炭鉱のシンボルであった二子竪坑櫓など、一般の観光客にもわかりやすいものがあればいいんですが」と続く。
高島に寄港する軍艦島見学ツアーの船もあるが、見学者を港近くの石炭資料館を案内するも「北渓井坑」までは行かない。
加熱する「明治日本の産業革命遺産」人気のなかで、置いてけぼりの感さえある。
端島を併合した1955年、高島町は人口約1万7,000人で日本一人口密度の高い町であった。しかし、閉山後、人口は激減し、2005年に長崎市へ編入される直前には、逆に全国で最も人口の少ない町となる。今年6月末の時点で人口413人となっているが、それは住民票で数えた数であり、「実際に島にいるのは300人台ではないか」と言われている。
また、閉山にともない、人々が暮らしていた住居施設はほとんど取り壊され、当時の風景はまったく残っていない。
廃墟として当時の風景を残す端島に比べて、今の高島には、炭鉱時代の様子をわかりやすく伝えるものは少ない。
そのようななか、高島炭鉱の歴史的意義を重んじる民間有志が、1986年の閉山前後を記録した写真展を8月16日まで高島ふれあいセンターで開催(詳細は関連リンクを参照)。わかりやすく高島炭鉱のストーリーを伝える企画である。
訪れる人に「北渓井坑」の価値が伝わるよう、同センターを管理する長崎市には、惜しみなく場所を提供し、写真展が常設できるよう、協力していただきたいところだ。

明治日本の産業革命の出発点「高島炭鉱」の記録~鵜沼享写真展

炭鉱があった事実を伝える写真展
炭鉱労働者の様々な姿を捉えた鵜沼氏の写真
世界文化遺産に登録された「明治日本の産業革命遺産 製鉄・鉄鋼、造船、石炭産業」の構成資産の1つである「北渓井坑跡」(ほっけいせいこうあと)がある長崎市高島町。
同町の高島ふれあいセンターで7月16日から8月16日までの1カ月間、写真家・鵜沼享(うぬま すすむ)氏による写真展「REMEMBER TAKASHIMA 炭鉱遺産・高島閉山の記録」が開催中である。
鵜沼氏は、1941年に福岡県甘木市(現・朝倉市)で生まれ、三菱造船(現・三菱重工)の機械工(旋盤工)として45年間、定年退職まで勤務。そのなかで、高島炭鉱が閉山した1986年11月の前後、約1年間、炭鉱の作業現場や島民の生活をフィルムに収めた。その写真点数は約7,000点。今年6月29日には、そのなかからピックアップした700点を収録した写真集「REMEMBER TAKASHIMA 炭鉱遺産・高島閉山の記録」(忘羊社)が発刊された。今回の写真展では、そのうち165点が展示されている。

北渓井坑跡

16日のオープニングセレモニーで、写真展を主催したNPO法人長崎iA3(アイランズ・アクト・スリー)の久遠龍史代表は、「世界が300年かかった産業革命を日本は100年で成し遂げました。とくに石炭産業が近代化のスタートであり、その最初が高島です。日本を支えるという熱い想いが集約した写真展です。石炭発祥の地という事実を語り継いでこそ、まちづくりがあると思います」と、明治日本の産業革命における高島炭鉱の存在意義を語った。世界遺産の構成資産となった「北渓井坑」は、1868(慶応4)年、佐賀藩とグラバー商会との共同出資で炭鉱開発が開始され、外国人技師により、1869(明治2)年4月に深さ43mで着炭。日本初の蒸気機関を動力とする巻揚機や排水ポンプが設置された竪坑である。鵜沼氏の写真集を監修した元炭鉱労働者(坑務課安全灯係)で、90歳となった今も高島に暮らす山崎徳(やまざき めぐみ)氏は、「蒸気機関もさることながら、入気と排気の3つに分けた造りが、端島炭鉱、筑豊、三池炭鉱に伝わり、出炭量を増やすことにつながっています」と説明する。

写真家・鵜沼 享 氏

炭鉱で働く精悍な男たちや島で元気に遊ぶ子どもたち、閉山反対運動の様子、炭鉱施設や住居施設が林立する風景などを収めた鵜沼氏の写真について、山崎氏は「端島(軍艦島)が度々紹介される一方、高島は写真も出ず、寂しい思いをしていました。生き生きとした写真に懐かしい思いがこみあげてきました」と感想を語る。鵜沼氏は、フィルムをデジタル化するまでの作業が難航したこと、協力してくれた印刷技師や出版社の忘羊社への感謝の念を述べるとともに、「撮影したことが間違いではなかった。高島に炭鉱があった証として使っていただきたい」と語った。
鵜沼氏は開催期間中、月3回行っている公民館での写真講座の日以外は、基本的に写真展の会場にいる予定。見学者への説明を行うほか、「当時、島で出会った人たちの再会も楽しみにしています」と語る。日本の急速な近代化と戦後の復興と高度経済成長を支えた石炭エネルギーを生み出した技術。その原点が高島町の「北渓井坑」にある。「明治日本の産業革命遺産」の出発点を、炭鉱時代の様子がわかる写真展とともに見学してみてはいかがだろう。

                ■鵜沼享写真展「REMEMBER TAKASHIMA 炭鉱遺産・高島閉山の記録」    
     <期 間> 
2015年7月16日(木)~8月16日(日) 
                午前9時30分~午後5時(最終日は午後4時まで) 
<会 場> 
               高島ふれあいセンター 
              ※長崎港より高速船「コバルトクィーン」で約35分。
高島ターミナルから徒歩約5分。 
<料 金> 
無料
<備 考> 
期間中、NBC長崎放送制作・提供のドキュメンタリー「高島百年の春」(1981年)を上映。 
 <主催・お問合せ> 
NPO法人 長崎iA3(アイランズ・アクト・スリー) 
TEL:095-898-2161
2015年6月28日

ホテルとミュージアムを併せ持つベネッセハウスを擁し、年間35万人もの観光客が訪れるまでになった瀬戸内海に浮かぶ直島。
一見成功したように見えるこの島ですが、高城剛さんはメルマガ『高城未来研究所「Future Report」』の中で、「よろしくない観光地」の代表例と手厳しい指摘をしています。
よろしくない観光地、直島 
今週は、瀬戸内海の直島にいます。
近年、アートの島として世界的な評価をうけている直島を、僕は事あるごとに「よろしくない観光地」の代表例として名をあげています。
一般的にビジネスシーンにおいて、成功例は頻繁に取りあげられますが、観光地も例外ではなく、成功例は数多くあっても、失敗例が取り上げられて検証されるようなことは滅多にありません。
しかし、問題を冷静に検証しなければ、別のプロジェクトでも同じことが起きてしまいます。ですので、一見良いと言われていても実は大きな問題がある(もしくはこれから起きる)ことを早めに見抜くことができなければ、今日の日本の家電業界のように、気がつくと手遅れになってしまいます。
そこで、各所で観光関連のお話をする際に、僕は必ず直島の名前をあげています。それは過去3回ほど来島したことがあるのですが、そのうち2回は同行者が大激怒するまでに至った「問題ある場所」だからです。
かつては、公害で有名な三菱マテリアルの精錬所だけしかなかった瀬戸内海の小さな島がターニングポイントを迎えたのは、80年代後半に近隣の岡山に本社を構える福武書店(現ベネッセ)のオーナーが、「人と文化を育てる場所として創生」することを目的に、大開発を行ったことからはじまりました。
90年代前半には、ホテルとミュージアムを持つベネッセハウスを開業し少しづつ拡張し、そして2005年にオープンした地中美術館がヒットし、それまで年間5万人程度だった観光客数は、現在35万人近くまで膨れ上がることになりました(瀬戸内芸術祭の年は100万人を超えています)。
では一体、一見成功したように見える「アートの島」は、なぜ人を怒らせる島なのでしょうか?
まず、日本の観光業において、しっかりケア、もしくはビジネス的に捕まえなくてはいけないのは、外国人観光客、富裕層、そしてハンディキャッパーです。
国内の一般観光客は、大河ドラマなどに代表されるプロモーション強化で一時的に繁栄させることはできるのですが、わざわざその場所を選んで、金銭的にも身体的にも時間的にも高いハードルを越えてくる「本物の観光客」をどのように捕まえているのかで、その観光地の行く末が推察できるのです。
なぜなら彼らの動向と対応こそがその地の懐の深さ(可能性)を図るもので、結果、流行に左右されない本物の観光地になれる成否を握っているからです

直島の何が問題なのか?

直島は本州と結ばれていない島ですので、船で島に渡る必要があります。<br>岡山から行く場合は宇野までいき、そこから港に向かって船で直島に渡るのですが、この間に英語の案内はほとんどありません。
今週、途中の乗り換え駅で「紙」に手書きした急ごしらえのポスターを見ましたので、少しづつよくはなっているのかもしれませんが、港は相変わらずで、チケットを買うのも大変です。
島唯一の大型ホテルであるベネッセハウスの観光客50%以上は海外からのゲストで、今年の4月には90%が海外ゲストだったのにもかかわらず、ほとんど英語のサインボードがないのは、異国情緒の混乱を体験する「アート」だと理解するとしても、富裕層とハンディキャッパーへの対応の悪さは、世界有数だと言わざるを得ません。
年間100万人を超える悪名名高いギリシャのサントリーニ島のタクシーは39台しか走っていませんが、年間35万人に近い観光客を抱える直島のタクシーは、驚くべきことに1台しかないのです。
しかも、貸切になってしまうことが頻繁で、世界的な富裕層(時には国賓待遇)が来島しても、公共バスで島を回るしかありません。
また、もしベネッセハウスにお昼につき、ランチを食べようとしても、館内に食事の提供はなく、ルームサービスもありません。
街に出ようとしてもタクシーはなく、運が悪くバスが行ったばかりであれば1時間以上次のバスを待つ必要があり、ランチの時間内にはたどり着けません。
僕がかつて同行したことがある方は、「いくらでも払うから食事を出せ!」と早々に怒り出した挙句、夕食は1万円を超えるフレンチのフルコース以外の選択はなく、時差ぼけによる体調不良で軽く食べたいと思っても他に選択肢がないのです。
そして、世界に誇る建築と美術館で、これほど酷いハンディキャッパーへの対応の場所を、僕は知りません。
直島のひとつひとつのプロジェクトやアートそのものは素晴らしいのですが(特にモネ関連とタレル全般)、結果的に大切なゲストを憤慨させる世界的にも珍しい場所だと思います。
近年、DJIのファントムやアップルのiPhoneの内部部品のほとんどが良質な日本製であるのにもかかわらず、トータルで良い製品を作ることができない日本企業の問題と直島は、とてもよく似ていると感じます。
今回の来島で3度めですが、年々良くなっている点と、さらに悪くなっている点があるのは、いまだに誰も俯瞰的に見る人がいないことの証です。
ですので、僕は日本の観光業の方にお会いするたびに、まるでリトマス試験紙のように直島の評価を尋ねることにしているのです。
きっとこの島では、今後大きな問題が起きるでしょう。
それは、「教育」をビジネスにしているベネッセという企業そのものの問題、そして日本の教育システムそのものの問題なのかもしれません。
 

『高城未来研究所「Future Report」』より一部抜粋 

「信頼関係を育てていこう」という地元に根ざした気持ちが必要である。<br>過疎であればなによりも地域密着型と言えばわかりやすいかな?
僕ら高島LOVERSでは、何かのシェア獲得ということをほとんど気にしたことがないし、実際店舗が少ない、事業所はほとんど助成金など行政の仕事ばかり。
私たちのお店は、飲食店であると同時に、島内外の仲間の集まる場所であったり、地域のコミュニティーでもあるような社交場を作る、というのが当初からの考え方である。
普通同業他社はライバルと捉えますが、そのお店や団体などの持つ経営者の信念が異なるのであれば、たとえ島に店舗がたくさんあっとしても本当の相手は同業他社にならない。
島特有の観光地としてのあり方や、島民の生活にどう溶け込んでいっているかなど、過疎の人口減少地においてはライバルなど存在しないので同業他社がない。
しかし、ライバル視的な意味合いであれば、事業を営む人間であるかもしれない。
僕らが絶対に口しない「島のために」とか「交流人口増やすために」とか、言いますが、すべては自分の利益に帰着してるように思えます。
行政を巻き込み事業を営む者、また行政主導で島の事業主や団体を巻き込み行っている事業に関わる人間同士の思惑などが複雑にしてますが、それぞれ己の身に関わることが優先しています。
私たちは行政や地域の権力団体との連携を嫌います。
なぜなら少子化の中で既得権益のある事業者の雇用としての人材としか見ていないからである。
自ら事業を生み出し、己のアイディアで運営をしていくことが、島に次世代の新しい風を入れていこうと思っているからである。
悪しき風習の流れを断ち切ることができず、悶絶しながらも少子高齢化に歯止めが効かない。
島の利権者はいまだ利己的なことに拘り、世の中の流れを捉えておらず、本当の少子化に歯止めや高齢化社会を生き抜くためのまちづくりに着手出来ずにいます。
世界遺産に沸き立つものの、何をしていいのか?
昨年から出来上がってくるものは10年20年前の古めかしいやっつけのものばかりで辟易しています。
それもこれも既得権益者の思考が終わっているからです。
自分のために動くが他人のために口先だけで価値基準は「自分を思うがために相手を思う」これにつきます。
島民は一体どこへ向かうべきなのか、自分たちの次の立つべきステージはどこなのか、ということが見えるようになってほしいもんです。
利権争いの派閥の弊害<br>島民・事業者&雇用人・行政マンなど島でいろいろな立場で経営参画していけば、同じようなタイプの人間が競合だと思ってしまう。
その時点で島での狭いせめぎあいになり、島内活性化が行き詰まりますよね。
競合ライバルになりうる相手はもっと広い、長崎市の事業所や長崎県の事業所のはずです。
観光地に遊びに来るお客様を獲得し合う相手が、島内なのか、それとも島外なのか?
そう考えると、自分たちがいなければならない場所がどういうステージなのかがはっきりしてきますよね。
そして、それが島のこれからのあり方に色濃く反映されていくのです。
観光地化じゃないですよ、島で暮らす人びとの事が最優先でなければいけないのですよ、事業だけで生活が安定したりしませんよ。
だって過去に炭鉱は永遠に続くものと、しかし現実・・・・・言わなくてもわかるでしょう、経済だけに頼っていると二の舞ですよ。

29年悩み苦しみ現在も苦しみ小手先継続中のこの島・・・・・・
            (何かを変えねばならない時、合意形成は必要?) 
木下 斉 :地方再生人、内閣官房地域活性化伝道師
2015年05月12日 

 地方創生をする際、「関係者の合意形成」は何よりも重要なことだと思われている。
だが実は全く違う・・・・・
この連載では、地方創生を考えるうえで欠かせない、いくつかの論点をとりあげています。
前回のコラム「偽物の官製成功事例を見抜く5つのポイント」では、行政側がつくる「ウソの成功事例」が、本当の地方創生にとっていかに害悪になるかを検証しました。
 
今回は、街を変えようとする際、その成否のカギを握る「集団による意思決定」の問題について、考えたいと思います。

地域活性化で「反対されないこと」は重要なのか

地域活性化分野において、多くの関係者が課題だと思い込んでいるのが「地域で合意形成をしなくてはならないが、うまくいかない」というものです。
実は、私のもとにも「関係者全員の合意がとれない」「どうしたら反対されないのか」ということに関する相談が来るのですが、これが結構な頻度にのぼります。<br>本当に必要なのは、「地域がどうしたら活性化するか」という事業を成功させるための努力のはずです。
しかし、具体的な活性化手法よりも、合意形成に囚われてしまっている人々があまりに多いのです。
 
そもそも、物事の仕組みを変える際、新たな取り組みについて、皆が事前に合意できるなんてこと自体が実は幻想であると思うのですが、どうしても「皆に合意してもらわなくてはならない」と思い込んでしまい、前に進めないのです。
これには、「日本人は皆で合意しなくてはならない」という、強迫観念にも似たものがあるように感じます。
何でも皆の意見を聞き、それを反映することこそが「良いこと」だと思われているのです。
では、皆が合意をすれば、プロジェクトは全て成功するのでしょうか。
残念ながら「そんなことはない」というのは、読者の皆さんもお気づきの通りです。
そもそも、衰退している地域に「新たな活力」を生み出すには、「新陳代謝」が必要です。
古いものが新たなものに置き換わるプロセスでは、新しい取り組みは、一部の人には短期的に不利益に見えることも多々あるのです。

「筋違いの反対」にひるむな

例えば、ある地域で活性化のために空き家を改装し、ゲストハウスにしようというプロジェクトが持ち上がったとします。
この際、地元の宿泊施設の関係者が、「そんなものができたら客をとられる」と考えて、陰に陽に反対をするかもしれません。しかし、これは既存の宿泊施設が、ゲストハウスよりも素晴らしいサービスを行って、新たな競争に勝てるよう努力すれば済む話です。
このケースで、既存の宿泊施設関係者が、地元の宿泊事業を牛耳る正当性は、何一つとしてありません。
また、1件や2件のゲストハウスができたことが原因で、既存の宿泊施設がすべて廃業になることなど、現実としてはありません。
なぜならゲストハウスにはせいぜい数名程度しか宿泊はできないわけです。
しかも大抵は、ゲストハウスのオーナーはまずは「自分の知り合い」などに宿泊してくれるよう営業をするため、顧客は既存の宿泊者とは別の営業ルートから来ることになります。
 
つまり、その地域とっては素晴らしい新規顧客になります。
このように、地域での「合意形成」は成立しにくく、「反対」そのものが筋違いということが少なからずあるのです。
しかし、こうした筋違いの反対に対しては、えてして「彼らの意見も聞いて内容を変更すべきだ」「ちゃんと合意形成してから進めるべき」などと話になり、そもそも新たな取組をする人が悪者、のようになってしまいます。
そんなことになるので、改革が進まず、結果としてその地域は衰退してしまうわけです。
 
私も各地で仲間と事業会社をつくってスタートする際に、地元の人の一部から「聞いていない」とか「お前のプロジェクトを潰してやる」などと言われることがあります。
しかし、それでやめていたら、地域は何も変わりません。
反対されず、合意形成をして決まる物事が、必ずしも地域にとってプラスであるとは限りません。
人間が互いに主観を排除し、癖を自認しながら、フェアに物事を議論するということは、極めて難しいことです。
例えば、集団で話し合いをする時、参加者の多くは「自分の意見を表明するスキル」と「素直にきいて理解するスキル」のどちらか、または双方が不足しています。
自分の言いたいことが的確に言え、人の言っていることを即座に的確に理解できるなんてことはまずありえません。
自分勝手な行動をとったり、横道にそれる話や、話の腰を折るような邪魔を入れたりする参加者がいたかと思えば、変に仕切りたがって誤ったリーダー行動をとる人も現れます。悪態をつき感情的な行動をとる参加者も少なくありません。
さらに、何より、自分の責任が明確になったカタチで、意思決定することを避けたいと考えている人が多く、曖昧な結論でしか合意できなかったりするのです。
一般的に、集団意思決定をする際には以下の3つのワナがあり、地域での集団の意思決定でもこうした問題を常に抱えていることを認識する必要があります。
 

(1)「共有情報バイアス」のワナ

「集団は皆に共有されている情報に関する議論に多くの時間を費やし、共有されていない情報に関する議論には多くの時間を費やさない」という傾向がある(Stasser,1992)、と言われます。これが共有情報バイアスです。合意形成を図ろうと皆で集まって議論しても、そこで共有されていない「第三の情報」については、当然ながら多くの時間は費やせません。
結局、集まったグループが持ちえる情報でしか議論はできません。
地域活性化のプロジェクトに決定的に必要な観点が、そこで抜け落ちたカタチで合意形成がなされたとしても、その合意形成は全く無意味だったということになりかねません。

(2)確証バイアスのワナ 

個々人の先入観や選好からスタートして、それを確証する情報ばかりを集めて自分の先入観や選好を補強していくという現象があります。これが確証バイアスです。<br>&nbsp;<br>地域活性化においても、やはり自分たちの意見に合う情報だけを集めてしまう傾向が強いのです。<br>「うちの地域が衰退しているのは◯◯が問題だ」というような話で皆が合意をすれば、その問題構造を補強する情報ばかりが集まってしまいます。<br>&nbsp;<br>例えば、「商店街が衰退したのはイオンのせいだ」とか、「最近の若者は甘すぎる」いう意見はその代表例です。<br>これらは一因ではありますが、全部の原因ではありません。
しかし、そう思い込んで合意したグループは、それに対応した情報ばかりを集めてしまいがちです。

(3)集団浅慮(しゅうだんせんりょ)のワナ 

賢い集団が、さまざまな情報を収集し、集団で意思決定を下す時であっても、大きなミスを犯すことは度々あります。<br>昔から真珠湾攻撃、ベトナム戦争、ピッグス湾事件などはその代表例と言われますが、地方都市における再開発事業などでも調査がなされ、皆が合意をし、税金まで投入されるまで民主的に決定されたにも関わらず、大失敗を繰り返したりしています。
これらは人が集まるとある意味例外なく起こる、以下の問題に起因します。
 

(a)集団の力と道徳性の過大評価

自分たちは有能で優れた意思決定を行っているという幻想が共有され、過大なリスクテイクに傾き、自分たちの集団的な結論が道徳的にもよいものであると、無批判に受け入れる傾向があります。「ウチのまちは歴史的に特別である」「自分たちは国や自治体から選ばれた優れたチームであって、自分たちがやることこそ地域を再生するのだ」、というような思い込みも問題の一つとなります。

(b)閉鎖的な心理傾向<

不都合な情報を割り引いて解釈し,当初からの意思決定を「合理化」してしまう努力のことを差します。
とりわけ「敵」を蔑視するあまり,敵の能力を低く見積もる傾向が出現します。
敵のリーダーを悪人だとレッテルを張り、無能化したりステレオタイプ化するのもひとつの傾向です。
衰退する地域では、敵である「他の都市」や「競合する商品・サービス」のあら探しばかりをして盛り上がり、自分たちのマイナス情報には目を向けないということがこうした心理にあてはまります。

(C)「斉一性(せいいつせい)」への圧力

問題だと思っても、言い出す前に自重してしまうことです。「満場一致の原則」では、誰も真剣な反対意見を述べないので、誰もが他者はそのプランを支持しているのだと思い込みます。
しかも,反対意見を言って集中砲火を浴びるよりは,その場の雰囲気を壊さないことを優先してしまいます。
最後には「番人」を自認するような人が現われ,都合の悪い情報を排除し,反対意見を言う人に圧力をかける、ということまで起こります。
このように、集団での意思決定では、皆が集まって議論をすればいいことが導けるとは限らないということを十分認識して取り組む必要があります。
ワークしないワークショップやめ、少数チームで挑戦を
 先日、とある自治体の責任者が私のところに立派な冊子を持っていらっしゃいました。
お話によると、1年間かけて、その地域の30人ほどが何度か集まり、ワークショップを行い、作成したということでした。
デザインされており、綺麗な表紙に参加者の似顔絵までついていました。
それに1500万円の税金が費やされたそうです。
皆の意見をたとえ出しあったとしても、それが何か具体的変化を生み出していないとなれば、全くの無駄だと私は思っています。
事実、残念ながらその自治体には何の変化も起きていません。
やはり彼らが出した結論については、今回のコラムで指摘した通り、多くの問題が含まれていました。
皆が議論し、合意したからといって地域を救えるわけではないのです。
本当に無益なことです。

責任をとらない100人の意見を集めるより、行動する1人の覚悟のほうが尊いのです。 

小さなチームが自ら取り組みを始める時に、いちいち合意形成などというものは気にせず、「衰退をさせている問題の解決に必要なトライ・アンド・エラーをどんどんやってみよう」という状況に地域をもっていくことが大切です。
小さな取り組みが失敗したところで、地域への影響などたかが知れています。
どんどんやってみて、残ったものこそが正解なのです。
答えはやってみないとわからないです。そして最初に皆の同意をとらずとも、やって成果がでれば、賛同者はどんどん増えていきます。
合意形成は最初にするものではなく、やった結果をもってなされるべきものなのです。
今回のコラムで見てきたように、集団意思決定には、常に落とし穴があります。
単に合意形成を重要視し、皆が合意すれば地域の取り組みはよいものになる、という思い込みを捨てましょう。
話しあいや調整ばかりして、挑戦する人々を潰すのではなく、挑戦する人を尊敬する。
そのことから始めると、地域における取り組みは、もっと飛躍的に面白くなっていくと思います。

 せっかくの税金はこうして無駄に使われる 

木下 斉 :地方再生人、内閣官房地域活性化伝道師 

疲弊する地方が多いなか、活性化に成功する事例は少なくない。だが「名ばかりコンサル」や行政関係者が、わざわざ税金を使って、逆にそうした成功者をつぶすことも。なぜこんなことが起きるのか。
「ある地域を活性化する」という時、全国の自治体関係者などが注目するのは、その時々の「成功事例」です。厳しい環境下でも、地元の少数のチームが新たな方法を地道に積み上げ、成果を生み出す地域は必ずあります。その「サクセスストーリー」と実績は、他の地域の人々の「希望の星」になります。
しかしながら、成功事例は時に”政策の道具”として扱われ、数年のうちに使い捨てられてしまうという悲しい現実があります。「成功事例を皆に伝えるため」という大義名分で行われる、さまざまな行政の施策が実はその地域の負担となり、長期的にはその活動を衰退させていくことになりかねないのです。

成功事例の”調査”事業は、現場を疲弊させるだけ

成功事例に群がる人々が害悪になる可能性があることは「地方を滅ぼす『名ばかりコンサルタント』でも触れたとおりです。今回は、地方創生に携わるすべての方々への警鐘の意味も込めて、「『成功事例の使い捨て構造』がいかに地域をつぶしているか」をとりあげたいと思います。
成功している地域の事業主体の方々は、「他人」から「自分たちの手柄」にするような方法に乗せられないようにしなければなりません。重要なのは、一時的な注目を集めることではなく、自分たちの地域の取り組みが持続することなのです。一方で「その他の地域の人々」は、成功している主体に配慮しながら、取り組みをする必要があるのです。
では、成功している事業主体は、どういうプロセスで疲弊していくのでしょうか。まず、地域で、地道な努力を重ねながら活動が徐々に拡大し、成果が目に見えてくると、地元紙から全国紙へとその取組が掲載され、多くの人が知ることになります。
その時期になると、「成功事例集に掲載させていただきたいので調査にご協力ください」といった連絡がきます。「事例集を作成するうえで、必要な資料がほしい」などと言われ、資料を手渡します。後日、作成された事例解説の内容を確認し、修正を行って返送。そして、成功事例集が世に出ていきます。
すると、次から次へと、さまざまな役所の成功事例集に載せたいという話が相次ぎます。同じ国の機関でも、シンクタンクでも共有はされず、毎回毎回同じようなヒアリング対応に追われます。
ここで問題なのは、こうした成功事例に対して調査協力費などは支払われないことです。タダでヒアリングに対応し、タダで資料を出し、タダでチェックをするのです。
「成功者」はタダ対応、「調査企業」には事業費の矛盾
しかし、その一方で調査に来ていたシンクタンク等には数百万円から数億円の事業費が、行政から支払われていたりします。苦労して成果を生み出した関係者には一銭も入らず、単にそれを調べている受託企業だけが収入を得る「成功事例調査」が、今も続けられています。
 
おカネの問題だけではありません。この対応によって、現場は無駄な時間を費やされることになります。その結果、活動にかけられるリソース(資源)が少なくなってしまいます。「時間だけをとられておカネにもならない、活動も低迷する構造」がここにあります。
成功事例集に掲載されるだけなら、まだましかもしれません。成功した事業の関係者に対しては、その後「視察見学」、「講演」、そして「モデル事業化にしてうまみを吸う」という、主に「3つの形態」で乗っかろうとする構造があります。どういうことでしょうか。一つ一つ見ていきましょう。

視察見学対応で忙殺される成功事例 

 「成功した取り組みをぜひとも見たい」という、議会や自治体、一般の方々から依頼が増加します。彼らは「先進地視察調査」の予算を持っているので、話題になっている地域に皆で出かけ、勉強しようとしています。
成功事例集に掲載されると、この「視察見学」の依頼が一気に増加します。多くの人が訪れて、場合によっては視察見学料をとったり、宿泊や物販などで地域に経済効果がある、ということもありますが、そのような収入は一過性です。
一方で、本来は地域活性化に使っていた時間を、視察見学への対応にとられるようになります。この間、「先進地域」は視察見学対応で忙しくなってしまい、活動は前に進まなくなり、低迷期を迎えてしまうことも少なくありません。そして、成果が低迷すれば見限られ、翌年は当然新たな「成功地域」に皆が視察に行く。まるで「焼き畑農業」です。このように、成功事例は「視察見学市場」でも使い捨てられます。 
 講演会ラッシュで生まれる、成功事例トップの不在
これも深刻な問題なのですが、成功した地域を率いている重要なトップ(キーパーソン)は、全国各地で開催される講演に呼ばれるようになります。全国区で注目されると、かなりの件数の依頼が入り、それらに対応しているだけで、地元にいられる時間は当然、以前より少なくなります。
なるほど、講演会などに代表が呼ばれていくことは、関係者にとって誇らしいことでもあります。また講演料などをもらえば、「一過性の収入」が入るため、どうしても優先したくなってしまいます。講演会に参加した人が、地元を訪れるなどという効果も無視はできません。しかし「講演会ラッシュ」の間、トップの地元不在が続き、結局のところ成果が低迷しがちなのです。そのうちに、「ジリ貧の活動を続けながら、虚しい講演活動だけ繰り返す」ことになっては悲惨です。
実は成功事例は次々と代わるため、いつまでも「講演会でひっぱりだこ」などということはありません。講演会市場もまた、消耗戦なのです。
「モデル事業化」採用という「ワナ」にはまるな 
 さて、3つ目です。実は、最も警戒しなくてはならないのは、行政からの「モデル事業」のお誘いです。成果が出ている地域には、さまざまな省庁から「モデル事業をやりませんか」、という誘いが入ります。もちろん、普通に支援をしたいという趣旨の場合もあります。しかし、「単に成果に乗っかりたい」というものが、かなり多くあります。
巨額の予算がつくと、どうなるのか政策成果が求められる昨今です。成功している地域に予算をつければ、さも「◯◯活性化事業予算」が生きているように見せかけることが可能です。成功地域の事例が、「他の無駄な予算」を隠すために使われるのです。
一方、成功事例といっても、有り余る資金を持っているところなどありません。細々と稼ぎながら事業を育ててきた地域に、一気に数千万円~数億円の予算が提示されたりします。「国のモデル」になり、さらに予算までくると、やはり引き受けてしまうのです。
 
「身の丈に合わない一過性の莫大な予算」は、地道に積み上げていた取り組みを破壊します。例えば、これまでは努力してやっていたことを、予算の力で業者に外注するようになったり、華美なものを作ったりしてしまうようになります。
さらに、無駄に膨大な報告書を作成したり、会計検査への対応をしたりと、行政がからむことによる独特の作業にも追われることになります。結局のところは、従来の取り組みは低迷し、モデル事業を「回す」ことに数年を費やすことになります。
事業で稼ぎ、成果をあげていたことが注目されていた成功事例でも、モデル事業に採用されてしまった途端、それ以降、本業は赤字になり、予算依存体質の組織に転落してしまうこともあるのです。おカネがなくて地域がつぶれるのではなく、「急に降ってくる巨額のおカネ」で地域はつぶされるのです。
残念ながら、政策担当者がほしいのは「◯◯地域が幸せになること」ではなく、政策で使える「成功事例」なのです。
それゆえ、成功事例でなくなった途端、その地域は見捨てられ、成功事例にも掲載されず、講演会にも呼ばず、モデル事業の対象にさえならなくなります。そして、担当者は異動で変わり、その事実さえ忘れ去られるということになりかねません。
あとに残るのは、せっかく伸びようとしていた「芽」がつぶされてしまった地域なのです。

「情報格差ビジネス」はもう要らない 

 どこに問題があるのでしょうか。
調査業務、視察見学、講演会、モデル事業のほとんどは税金で行われています。
これらが、地域のためではなく、地域活性化政策にかかわる、行政、一部受託企業などの事業のために行われているのが問題です。
地域活性化で成果をあげた地域と、成果をあげられていない地域との間にある「情報格差」のネタにしているだけです。
実態としては、税金を使って成功事例をどんどんつぶして回り、後発地域にとっても損失となっている現実があります。
地域活性化は、現場が最先端です。
最先端を歩む先進的な地域は自らが情報発信し、関心のある人々に、適切な情報を提供していけばよいわけです。
今はインターネットもあり、各地域の現場が直接的に連携し、情報を交換することが簡単になっています。互いの地域で情報を交換しあえば、税金を使って一部の企業しか儲からないような事例集などの情報格差ビジネスの余地自体がなくなります。フェアな環境ができます。
そして、各地の取り組みのノウハウを知ることができた際に、少しずつでも「お礼」の形で資金を出し合えばよいのです。
成功事例を生み出した地域は、その対価を元手に、次なる事業に取り組めば、地域の取り組みは持続的になっていきます。
互いに挑戦し、その取組みの内容を教えあい、「出せる範囲」で対価を支払う関係をやっていけば、さまざまな地域課題を解決できる知恵が全国から生まれてきます。
一過性の注目を集めることに重点を置くのではなく、地味でも常に積み上げ続けることができれば、地域の取り組みはもっと発展していくと思います。

「目的を追いかけ続ける人生」に潜む限界 

                名越 康文 :精神科医 2015年04月18日 

「どうせ」という言葉はくせものです。

「どうせ汚れるのになぜ掃除するのか」「どうせ腹が減るのになぜ食べるのか」「どうせろくな人生じゃないのに、なぜがんばるのか」……
現代人の思考の中には、こんなふうに「どうせ」が蔓延しています。
なぜ僕らは「どうせ」という思考に囚われるのか。それはおそらく、僕らが常に結果を求め、目標を達成することを求められる社会に生きているからだと僕は考えます。
 
学校でも、会社でも、家庭でも、私たちは常日頃「目標」や「目的」、あるいは「結果」を求められます。しかし現実には、世の中の物事は必ずしも明快な結果が出るものばかりではありません。現実は厳しく、良い結果を出すことが難しい……ということもありますが、そもそも社会に出てから僕たちが向き合う物事は、白黒はっきりつかないものが多いのです。

「どうせ」を生む目的至上主義

受験勉強のように「合格」「不合格」といったはっきりとした<結果>が目に見えるのは例外で、たいていの物事は、善悪、正誤、良い悪いの評価をはっきりとつけることは難しい。
必死に努力して手に入れた成果が、手に入れてみると良いとも悪いとも言えない、何とも手応えのないかげろうのようなしろものだと気づいたとき、僕らは「人生とは、なんと空虚なものだ」と感じてしまわざるを得ないでしょう。努力しても、悩んでも、考えても、「どうせ」最後には死んでしまう。だとすれば、何のために僕たちは生きているんだろう。
 
目的至上主義を突き詰めていけば、人は「どうせ……」という空虚さに突き当たらざるを得ないのです。
五月病というのは、私流にいうと、それまで目的を追い続けることに疑問を持たずに人生を送って来た人が、初めて「目的を達成することの空しさ」を体感することによって招き入れてしまう、抑うつ状態ということになると思います。
考えてみると、これはなかなか厄介な病です。「大学に入ること」や「就職すること」を目的に生きてきた人が、長い努力の末にその目標に到達した瞬間、長い長い、目的の見えづらい人生の道に立たされる。自分があれほど努力して得たものは何だったのか、という空虚さに囚われてしまう。
そして、その空虚さを埋めようと、ある人は「一生懸命勉強を頑張ろう」とするし、ある人は「資格を取ろう」とする。「とにかく出世してやる」とがむしゃらに仕事に全力を傾けようとする人もいるでしょう。
しかし、よくよく考えてみると、それもまた「目的を追いかけ続ける人生」にほかなりません。目的を追いかけ続ける人生に絶望した人が、その空虚さを埋めるために新たな目的を追いかける。そのことの滑稽さに気づいた瞬間、人は人間存在というものが抱えている、根本的な空虚さに打ちのめされてしまう。僕はこれこそが、5月病の本質だと思うのです。
目的を追いかけ続ける人生に、どこかでいったん終止符を打って、少し異なる次元に立たない限り、僕たちは五月病とは無縁でいられません。
お金儲けや恋愛、あるいは名誉。何であれ「目的」や「目標」あるいは「結果」を追いかけ続ける限り、僕らは例外なく「5月病」予備軍です。もちろん、目的を追い続ける限りは力強く人生を歩むことができるでしょう。目的を達成することの空虚さに気づいてしまった瞬間、それまでの人生がいかに空虚なものであったかということを思い知らされてしまうことになります。

「身体」に向き合おう

ではどうしたらいいのか。目的や目標を追い求める人生から抜け出す鍵は、以前『驚く力』という本でも述べたように「いま、ここ」に向き合うということ。そして、そのために必要なことは、「身体」に向き合うということです。
というのも、身体というのは、目的意識に支配された僕たちにとって、常に(いい意味でも、悪い意味でも)予測を裏切り続ける存在だからです。スポーツや武道、あるいは茶道や能といった、身体を使った芸事に取り組んだことがある人であれば、僕たちの身体には、僕たちの想像をはるかに超えた可能性が眠っていることを知っています。
 
一方で、病や身体のかたさや弱さ、あるいは故障といったものは、僕たちの身体は有限であり、決して僕たちの思い通りにはならない、ということをわかりやすく教えてくれます。
身体と向き合う日々を重ねていれば、身体はだんだんと、僕らの問いかけに答えてくれるようになります。そして、身体が教えてくれるのは、僕らの身体を含めた世界が、「原因があり、結果がある」という一方向的な因果関係だけで出来上がっているわけではない、ということなのです。
 
あなたの毎日は、一見同じことの繰り返しに見えるかもしれません。
しかし本当は、同じことは決して起きていません。
一回性こそが世界の真実です。だとすれば、人生の本質とはその一回性の「今、ここ」を、いかに充実して生きるか、ということ以外にはありません。
目的を追いかけ続ける人生は、未来の目的や結果のために「今、ここ」を犠牲にしてしまうことになるでしょう。あなたが本当の意味で充実した人生を送るために必要なことは、かけがえのないあなたの身体を動かし、「今、ここ」に向き合うことなのです。
 
一日一回、15分以上のまとまった時間、必ず身体を動かす習慣を身につけてください。
たったそれだけのことでも、2カ月、3カ月と続けていくうちに、心の中から「どうせ」という言葉が消えていきます。
身体を動かし、「今、ここ」に向き合い続けること。それこそが、5月病から脱するカギなのです。

2015年4月9日 12:22

「増田レポート」が各自治体の危機感をあおった

「地方創生」の議論を盛り上げたのは、昨年5月に日本創成会議(座長:増田寛也氏)の人口減少問題検討分科会から出た報告、「ストップ少子化・地方元気戦略」――
いわゆる「増田レポート」でした。
増田レポートで示された推計は、「2040年までに全国1799市区町村のうち半数の896市区町村が消滅する可能性がある」というショッキングな内容だった。インパクトは大きく、全国の自治体関係者の危機感をあおった。
増田レポートは周到に準備され、タイミングよく世に出た。<br>発表の前に、増田氏と菅義偉官房長官とのすり合わせがあった。
菅氏と増田氏は、第1次安倍内閣の時代にともに総務大臣を務めた「ツーカー」の仲だ。
安倍晋三首相が目指す、「道州制」についてもよく理解している。
昨年5月の発表に先立って、日本創成会議は、新聞とテレビの主要社に対し、消滅の可能性があるとした自治体のデータを事前送付した。
増田氏らの予想どおり、メディア関係者は敏感に反応した。とりわけ地方紙の多くが衝撃を持ってこのデータを1面トップに掲載したことで、自治体消滅、地方消滅をめぐる議論が一気に加熱した。
文字通り「ショック・ドクトリン」です。
安倍首相の政策を後押しするためで、狙いは大きく2つあった。
ひとつは、増田レポート発表の1週間後、5月15日に発足した第31次地方制度調査会における雰囲気づくりだ。
第1回総会で自治体が消滅する可能性を視野に入れた地方制度のあり方について諮問がなされた。
ある委員からは「道州制を見据えた議論を展開すべきではないか」との提言が出て、畔柳信雄会長は「自然に道州制の議論にもなる」と記者に答えた。ちなみに、畔柳氏は、経団連の道州制推進委員会委員長でもある。
同調査会の答申を準備する専門小委員会では増田レポートが配布されて、それを前提にした議論が進められている。
「選択と集中」政策を進める狙いも?
もうひとつは、国土交通省で策定中だった「国土のグランドデザイン2050」の情勢認識の前提にすること。
今年度から開始される国土形成計画の見直しの基本枠組みとなる社会資本投資の「選択と集中」政策を進めたかったのだ。
昨年7月4日に決定された文書からは、人口30万人規模の「高次地方都市連合」の形成や、集落再編の手段として「小さな拠点」構想が盛り込まれたことがわかる。
なお、経済財政諮問会議の「骨太の方針2014」(2014年6月24日に閣議決定)でも、地方創生本部(まち・ひと・しごと創生本部)の設置など、増田レポートを前提とした政策が示された。
 
増田氏は、『日経グローカル246号(6月16日発行)』のインタビューの中で、「政権が毎年のように替わっているときに(推計を)出しても意味がなく、安定している今がチャンスだと思った」と明かしている。発表直後に、安倍首相にもじかに説明したということだ。
 
増田レポートが示した「消滅可能性都市」の予測は妥当なのでしょうか。<br>データ分析の方法に問題があるため、妥当とは言えない。
まず、このシミュレーションが、「東京への人口の一極集中が続く」という前提に立っていることが問題だ。消滅可能性都市の根拠となっているのは、2005年から2010年にかけての人口移動率から算出した、20~39歳女性の減少率だ。
中長期的な人口波動をみると、人口が東京に集中する時期には波がある。シミュレーションをする際は中間値をとるのが普通だが、増田レポートでは最大値がとられている。
 
次に、東日本大震災(2011年)後に活発になった、若年世代の「田園回帰」の動きについて盛り込まれていない。
東日本大震災後の人口移動のトレンドについては、明治大学農学部の小田切徳美教授らが指摘するように(『農山村は消滅しない』岩波新書、2014年)、都心から地方への人の動きがあることが明白になっている。
一部の自治体がこれまで取り組んできた主体的な取り組みについても、まったく考慮されていない。過疎地域の中には、移住サポートや医療・教育支援を推進してきた自治体があり、実際に人口増加に転じた複数の自治体があるなど、成果も出ている。こうした主体的な取り組みが、今後増えてくるであろうことが推計要因として勘案されていないのだ。
 
この分析だけで、自治体消滅の可能性を言うには無理がある、と。
そもそも、20~39歳女性が半減するという推計だけを基に、自治体の「消滅」を言うのはおかしい。
当然だが、自治体を構成しているのは、若い女性だけではなく、ほかの年齢層の女性や男性もいる。
無理な推計を基にするから、「東京都豊島区が消滅する」などという、笑い話のような結果が出てくるのだ。自治体は、住民の代表である首長や議会が、合併などで自治権を返上しないかぎり、消滅することはない。そこに論理的な飛躍、あるいは政策的な意図を見る必要がある。
一方で、メディアに注目されるのはデータ分析の手法ではなく、自治体の半数が消滅する可能性がある、というデータそのもの。非常にうまい見せ方だが、この推計を基に政策や世論が構築されていくことは危険だ。

安倍政権が目指すものとは

増田レポートを前提とした地方創生策が動き出しています。安倍政権がこの先何を目指しているのでしょうか。
今回の交付金は、一時的な“アメ”にすぎない。短期的に見れば統一地方選対策とも言える。
ただ、中期財政見通しの見直しが必要となっており、次の参議院選挙が終われば、交付金を大幅削減するべきとの議論が出始めるだろう。
安倍首相がその先に見据えているのは「道州制」の導入だ。
現行の都道府県制を廃止し、10程度の州と州都を置き、基礎自治体も人口30万人程度に大きくくくり直そうというものだ。
国は外交、軍事と通商政策、州政府は経済開発や公共事業、高等教育政策、基礎自治体は住民の生活に近い初等教育や医療、福祉を担うという「役割分担」を図るのが狙いだ。
今、沖縄県の辺野古で起こっている問題からわかるように、外交・軍事については国の専権事項にしたいということだ。
先の総選挙の際に策定された自民党の「政権公約2014」には、こんな文言があった。「道州制の導入に向けて、国民的合意を得ながら進めて参ります。
導入までの間は、地方創生の視点に立ち、国、都道府県、市町村の役割分担を整理し、住民にいちばん身近な基礎自治体(市町村)の機能強化を図ります」。
 
こう明記していることからも、道州制導入までの間のつなぎとして地方創生を位置付けていることがわかる。
道州制について、安倍首相の思いは強そうですね。
道州制について首相は、第1次安倍政権時代から、強い意欲を示してきた。
石破茂・地方創生担当大臣は、国家戦略特別区担当でもあり、道州制の実現について検討するよう首相から指示されている。
だが、地方の自治体の反発があるので、簡単にはいかないこともわかっている。
小泉純一郎内閣期に「アメとムチ」の政策で強引に行った「平成の大合併」がうまくいかなかったことで、地方の小さな基礎自治体や県は、道州制を警戒している。
だから安倍首相は、「行政の選択と集中をしなければ生き残れない」という雰囲気をつくり、中枢都市を中心として30万人都市行政体を地方制度と国土計画の両面から行い、道州制導入の地ならしをしているように思える。
 
増田レポートに基づく地方創生論を展開すれば、自治体の首長や世論が、あきらめ半分で道州制や自治体再編を受け入れるかもしれない、という期待を抱いているのだ。

地方創生の限界は、いったいどこにあるのか

自治体問題の権威が安倍政権の政策に警鐘
合併後も人口減に歯止めが効かない浜松市・・・・
まずは人口30万人圏の都市を軸に、社会資本を整備・集約しようとしている。
昨年度、総務省は兵庫県姫路市や岡山県倉敷市など9自治体を「地方中枢拠点都市」のモデルにしたが、これを今年度には60都市に拡張する予定だという。
今年に入り、総務省の「地方中枢拠点都市」と国土交通省の「高次地方都市連合」構想を、「連携中枢都市圏」に一本化することになった。
行政サービスの広域連携を推進するものであり、75万人の圏域人口を抱える拠点都市には2億円を交付するという財政誘導付きだ。
周辺地域の自治体は「見えない合併」になるのではないかと警戒している。
「平成の大合併」の弊害は大きかったのでしょうか。
典型は、総務省の中枢拠点都市のモデルとされた静岡県浜松市だ。
静岡県静岡市との都市間競争のなかで政令市になるため、2005年に合併し、1511平方キロメートルの広大な面積をもつ基礎自治体となったが、2009年から人口が減少し続けている。都心部の中区と北部の天竜区で人口減少幅が大きい。
中区の人口減少は、ヤマハ発動機など大手メーカーの工場閉鎖や縮小、顧客の減少による中心商店街の空洞化が主因だ。
市北部の天竜区は2005年に5市町村が合併した、944平方キロメートルの広大な区。
旧市町村のうち龍山地区はかつて林業で栄えていたが、合併後の9年間で人口が3割以上減った。
広域合併すると、役場が出張所となり、行財政権限がなくなり、職員数も激減する。地域の最大の投資主体が消滅することになり、地域産業振興も住民の福祉サービスも低下し、住民が住み続けることが困難になるからだ。これは、広域合併自治体で共通したことであり、市町村合併を唱導した西尾勝東大名誉教授でさえ、参議院の「国の統治機構に関する調査会」の参考人質疑(2015年3月4日)において「平成の大合併は大失敗」だと認めざるをえなかった。
 
合併した市区町村への地方交付金は合併特例によって10年間は増えるように見えるが、それ以後は減額され、15年後には合併しない場合よりも減少する仕組みだった。
こうなると、事前に職員削減をしなければならず、人口の少ない地域には産業や福祉担当の職員を置くことができない。
東日本大震災や、広島県広島市の土砂災害でも市町村合併の弊害が出た。<br>かつての町村役場の職員は地域の実情や住民の状態をよくわかっていた。
だが合併して、支所や出張所になったことで、職員がごく少数の窓口業務が主体となり、地域の実情がわからず、災害対応が遅れたり、有効な判断が現場でできなくなったりした。
「平成の大合併」に巻き込まれず、活性化に成功した自治体はありますか。
いくつもある。
 
早くから自治体と住民が協同で地域づくりに取り組み、人口を維持、増加させてきたところだ。たとえば、宮崎県の綾町。前田穰町長(全国小さくても輝く自治体フォーラム会長)が先頭に立って人口定住対策に取り組んできた。
「地域の経済2014」(内閣府)の中でも、2010~2013年の間に人口が増加した地域として紹介されている。
綾町は、戦後ダム建設が終了して以降、人口が減り始め、一時期は「夜逃げのまち」と言われた。だが1970年頃から、自治体と住民が一緒になって、日本でいち早く有機農業を推進。
東京と福岡の生協との連携ができたことで軌道に乗った。
さらに宮崎の著名な蔵元である雲海酒造が、清浄な水と土に注目して立地、テーマパーク「酒泉の杜」を造った。
さらに芸術家の移住がなされ、スポーツ合宿で賑わう町になっている。
昨年のふるさと納税は、8億円を超し、全国4位になっている。
同じ宮崎県の西米良村も、1994年時点の厚生省の将来人口推計では2010年に750人程度まで減るとされていた。
 
実際には、2015年2月時点の人口は1230人だ。
西米良村の取り組みの主軸は、1998年に全国に先駆けて始めた「ワーキングホリデー制度」だ。
村の農家が若者を受け入れ、農業体験をしてもらう。
これまでに約400人がワーキングホリデー制度を利用し、中には西米良村に定着する人も出てきた。
黒木定蔵村長は常々、「村づくりの目標は人口増加ではなく今住んでいる人たちの幸福度を上げること。
結果として人口が増えるのは歓迎だ」と話している。

人口減をもたらす最大の要因は少子化

小規模な自治体だからといって、東京への人口移動が自然に進み、自然に人が減っていくわけではないということですね。
自治体と住民が力を合わせ、地域内で再投資できる仕組みを作れば、仕事と所得が生まれて地域は活性化する。
こうした地域で、人口がどんどん減っていくということはない。
増田レポートの弱さは、人口減少要因の分析が甘いことにある。
人口減をもたらす最大の要因は少子化だ。
少子化の大きな要因のひとつが、非正規雇用の増加である。
「ワーキングプア(正社員並みの労働をしても生活維持が困難なほどしか収入を得られない層)」という言葉は、第一次安倍内閣時代に生まれた。
2010年の内閣府調査によれば、非正規雇用の20~30代男性の既婚率は6%に満たない。
非正規雇用は、量的には地方というより東京・大阪など大都市圏の問題であり、ここにメスを入れずして少子化問題は乗り越えられない。
少子化を解決するには、「地方創生」ではなく、若い人たちを中心とした「都市再生」こそが必要だ。
また、製造業をはじめとする地域経済の衰退は、大企業の海外シフトが契機となった。
ここに「平成の大合併」が加わったことで、浜松市の例のように、中核都市の周辺部でも人口減少が加速した。
このような従来型の構造改革政策や国土政策、市町村合併についての根本的なレビュー(振り返り)が必要なのだが、これもなされていない。
地方創生策の限界はどこにあるのでしょうか。
政策の中心が、「外部からの企業や人の誘致」と「選択と集中」にあることだ。
東京に本社を置く、一部のグローバル企業にとってのみメリットがある。
「地方創生」は、規制緩和によって、新たな経済主体がビジネスチャンスを拡大することを意味しており、決して、地域経済を現に担っている既存の中小企業や農家、協同組合の投資力を高めるところに焦点を置いてはいない。
だからこそ、「再生」という言葉を使わずに、ゼロからの出発を意味する「創生」という言葉をあえて使っている。
自治体と住民とでの問題意識の共有が重要
しかし、地域からの視点からみると、たとえば一時的に域外から企業が進出して売り上げが増えたとしても、その所得が域外に流出したり、撤退したりすると、地域経済の持続的発展は失われてしまう。
何よりも、地域の住民の所得や生活の向上に結び付く可能性は低い。
地域を持続的に発展させるには、自治体と住民が問題意識を共有し、協同して、地域内で再投資できる仕組みを作らなければ。
カギとなるのは、地域に根差し、地域経済の圧倒的部分を担う中小企業群であり、農家や協同組合だ。外から企業を誘致するにしても、地域内から商品やサービス、雇用を調達してもらうことが重要だ。
国がトップダウン的に進める「地方創生」ではなく、地方自治体が地域の住民や企業ととともに自らの自治体の目標を掲げ、それに向けた取り組みを国が黒子役としてサポートするボトムアップ型の「地域再生」こそ、大都市でも農村でも求められていると言える。
 
「地域は人である、そこで暮らす人々の幸福度が上がらなければ、人口は減少していき、若者も離れていく
この島も高齢化になった原因をちゃんとみればわかるハズ。
残った人間が過去の産物や島民経済を奪い合うようになっている現状から未来は確実に最悪の道へと進むであろう。
しかし何もなくった島だからこそ、新しく生み出すチカラが必要、助成金などでの延命ではなく、自ら生み出すパワーの人材が必要と僕は考えています。」
責任をとらない100人の意見を集めるより、行動する1人の覚悟のほうが尊いのです。
             

                木村 

つい先日、ある会社で「リーダーとしての姿」に関する議論があった。
私はその議論をずっと観察していたのだが、ひとつの発見があったので、少し書いてみたいと思う。
議論のネタは、「頭の良いリーダー」と、「行動力のあるリーダー」どちらに人はついていくか。というものだった。
もちろん両方兼ね備えているのが理想である。
しかし、往々にして「頭で考えるタイプ」と、「まずやってみるタイプ」は両立しない。
果たして、どちらのリーダーに皆が、「自発的について行きたくなるか」という話だ。
当然のことながら、参加者の中から「頭の良い」とはどのようなことか、という質問が出た。
それに対して議長は、「計画をきちんと立て、勘ではなく数字を重視し、あまり間違えないリーダー」という姿を定義した。
一方、「行動力のある」とは、「計画は最小限、まずは率先して自分がやってみて、直感的に判断する。よく間違えるが修正も早いリーダー」という姿を定義した。「成果を出しているかどうか」については、同程度とした。
さて、皆様はどう思うだろうか?
結果は明白だった。
成果が同じくらいなら、圧倒的多数が「行動力のあるリーダー」についていきたいと言ったのだ。
 
逆に「頭の良いリーダー」は酷評された。<br>&nbsp;<br>「自分たちを必要としなさそう」
「一緒に苦労してくれなさそう」
「数字ばかりでおもしろみがない」
そういった意見が数多く出たのである。
また、面白かったのが、仕事の出来る人ほど、「行動力のあるリーダー」を支持したという点だ。
議論の前は「間違えないリーダー」のほうが好まれると思っていたが、むしろ、仕事の出来る人は
「リーダーが間違えても、我々が補佐できる」
「挑戦とは、間違いを含むもの」
「間違える人のほうが信頼できる」という意見が多く、仕事のできない人は「無駄な仕事をさせられるのがイヤ」「自分より優秀な人でなければリーダーとして認めない」という意見が出た。
この会社だけの話ではないだろうか、と思いもしたが、過去に訪問した会社のリーダー像を思い浮かべると、実際に慕われるリーダーは、確かに「行動力のあるリーダー」に近いイメージだったと思う。
この議論の結果には一理ある。
おそらく、リーダーの選択においては、「理性的にリーダーを選択する」というよりも、「リーダーは感情的に選択される」とも感じる。
要は、「人間的魅力」がリーダーを作る、ということだ。
そしてその人間的魅力、というのは、「最小限の力で正確に仕事をこなす」という部分ではなく、「精一杯力の限り働く」という部分なのだ。
 
4月からリーダーとなる方もおられることと思う。
リーダーとして、「自分が模範を示さなければならない」、あるいは「間違えてはいけない」とプレッシャーを感じる人もいると思う。
しかし、「本当に信頼できる部下」は、あなたに「間違えないこと」を要求しているのではなく、「率先して行動し、間違えた時はその非を認めて、素早く修正する」ということを求めている。

先日の夜、医療系の若い研究者と喋っているうちに、なぜか原発事故の話になった。私よりも年上だけど、経歴から言えばまだ学生と大差ない。
彼からすると、世間の人々があまりにも「バカ」に見えてしまうらしい。
テレビに不安を煽られて、知識不足のまま間違った選択をしているように見えてしまうらしい。その指摘は、半分は正しい。
世の中の大半の人は、正しい知識を持たないまま不正確な情報に踊らされてしまう。
国際線の飛行機内よりもはるかに低い線量に恐れおののき、統計的、疫学的な判断をせずに甲状腺異常や白血病の患者がいたというだけで大騒ぎする。

人間は、一般的にバカだ

現代社会は、果てしなく分業が進んだうえで成り立っている。
私は木綿の下着を作れないし、あなたは(たぶん)水道水の浄化設備を設計できない。
コメの育て方を知っている人が、同時に半導体の生産ラインにも精通している場合は極めてまれだ。
 
誰かにとっての常識は、他の誰かからすれば難解な専門知識かもしれない。
だから専門家がどんなに安全を訴えても東北の食品は安く買いたたかれ、諸外国では日本製品の輸入禁止が進んだ。専門家からすれば、自分たちの意見が黙殺されたことになる。
原発事故が多大な経済的損失を出したのは(原発が悪いというよりも)一般人がバカだからだ......。と、考えてしまうのも無理はない。
 
また、「原発そのものは安全だったのだ」と彼は言った。
建物は地震に耐え、津波にも耐えた。
電源喪失さえしなければ事故は起こらなかったし、その原因の大半は人為的なものだった。
問題があったのは人間の側で、原発ではない。
この指摘も半分は正しい。が、それだけでは原発政策を肯定することはできない。
 
彼の視点は、原発とその事故を理科の問題としてしか捉えていない。
放射線が人体に及ぼす影響、原発が事故を起こす仕組み......
それらはすべて理科の知識で説明できる。けれど原発政策は、文字通り政策課題だ。
社会的な問題だ。人間の心や行動まで含めて考えなければいけない問題なのだ
しかし彼の視点はあくまでも「理科の視点」であり、科学の視点ですらない。
人間の行動や生態を科学的に分析・考察することは可能だ。
ありきたりな人文vs科学の対立構造は唾棄すべきだ。

科学からヒトという動物を排除する

それは小中学校の「理科」の態度だ。だから彼のモノの考え方は「理科の視点」なのだと、私は思う。
そして理科の視点は、必要な視点でもある。
人間的な感情に支配された意見ばかりが飛び交ってしまうと、たぶん私たちの社会はいまよりももっと冷静さを欠いたものになってしまうだろう。
 
専門家の立場として、彼のようなモノの見方・考え方は絶対に欠かすことができない。
考え方は多様なほうがいい。
「(疫学的事実として)明白な放射線被害は出ていない」「(工業製品としての)原発そのものは安全」
......だから使う人次第で原発は安全に運用できる:その考え方は論理的に間違っていない。
 
ただし、世の中のすべての人がそういう考え方をできるわけではない。
たとえば時速300km出せるスポーツカーが交通事故を起こしたとしよう。
では、その責任の所在はドライバーにあるのか、それともスポーツカーを販売した企業にあるのか、あるいはスポーツカーを公道で走らせることを許した立法や行政にあるのか。
 
ある人はドライバーが悪いと言い、ある人は企業が悪いと言い、ある人は国が悪いと言うだろう。考え方は多様なのだ。
そして、そういう多様な考え方をすり合わせながら、"私たちの社会"を"よりよいもの"にしていかなければならない。民主主義って、そういうことだ。
シートベルトの着用が義務化されたとき、ドライバーの自由を奪う悪法だという批判があったそうだ。
日本ではつい最近まで、親殺しは普通の殺人よりも罪が重かった。
つまり逆にいえば、親に比べて、それ以外の人間の"命の価値"は軽いと見なされていたのだ。昔の価値観は分からないけれど、いまの価値観でいえばさすがにそれはおかしい。そう考える人が増えたから、刑法200条は削除された。おそらく今でも、親殺しは普通の殺人よりも罪が重いと考える人はいるだろう。けれど、社会はその価値観を無視している。私たちは、一人で生きているわけではない
 
"私たちの社会"の私たちに、どの範囲までの人々を含めるのか。"よりよいもの"のよりよいとはどういう状況なのか。社会全体の通念と、あなたの考え方との間には、かならず齟齬が生じる。なぜなら社会というものは、あなたではない他の誰かの考え方にも影響を受けているからだ。他者の影響から逃れられないからだ。
あなただけの社会などありえない。
あなたの考える通りの社会など、ありえない。
スポーツカーよりも速く、安全で確実にモノを運ぶ手段があれば、スポーツカーなど要らないのではないか......と考える人が増えれば、そのうちスポーツカーはなくなるだろう。
 
たしかにバブルの頃に比べて、若者はスポーツカーに乗らなくなった。
そしてスポーツカーが凄惨な事故を起こしたら、世の中は一気にスポーツカー規制の流れに傾くかもしれない。スポーツカーを乗るのは個々人の自由だ、事故を起こしたドライバーの責任だ、と訴える人がいても、もはや世の中はその自由を承服しないだろう。価値観が変われば、社会は変わる。
 
「スポーツカーは嗜好品であって原発とは全然違う」と反論されるかもしれないが、本当だろうか。コラムニストの小田嶋先生などは「でかい工場って格好いいよね!」というオトコノコ的感情が原発事業者の心にはあるのではないか......という愉快な指摘をなさっていた。
確かに好きじゃなきゃ仕事にしないよな。
ともあれ、喩えが適切かどうかは、論旨の正しさには関係がない。
スポーツカーの喩えがよくないと指摘されたら、他のモノで喩えるだけの話だ。
 
「原発は社会的な問題だということ」
「社会には多様な考え方があるということ」
そして、「多様な考え方をすり合わせた結果が、この社会だということ」
 
私が言いたいのは、そういう社会の雑多さを認識すべきだということだ。
世の中が思い通りにはならないということだ。
私たち一人ひとりの力は小さく、できることといえば「よさげな意見」に手を上げるしかない。賛成だと示すしかない。
問題は、どのような意見に賛意を示すのかだ。古くさくてノー・フューチャーな意見か、それとも新しくて未来志向の意見か。
原発事故が日本経済に計測不可能なほどの打撃を与えたことは、変えようのない事実だ。少なくとも私は、"よりよい未来"を目指している側に手を上げたい。

                文・冨田貴史 
 絵・Karri Tree Design 

             (はじめに)
「経済優先の是非を論争するのではなく、経済の質を話し合い、その意味を膨らませたい」
三宅商店の店主である三宅洋平は2013年に行われた参議院選挙に向けた立候補宣言の中でこのように語っている。
<経済=マネーゲーム>と括ってしまうと、その印象はあまりいいものにならない気がするが、実際はマネーゲームだけが経済だけでない。
経済という言葉は「経世済民」から来ている。
自分自身と世界、自分自身と他者との間に生まれる関係をつなぐものが経済とも言えるだろう。人間同士、人と自然環境の関係性、つまり世界のあり方は、経済のあり方からの影響を大きく受けている。
ある意味で、経済は「媒介物=メディア」の一つでもある。
日常の中で触れているメディアがどのような考え方で運営され、どのような方向性に人を誘おうとしているのかによって、そのメディアに触れる者の生き方、暮らし方、考え方は大きく変化する。
同じように、どのような考え方で成り立つ経済の中に生きているかによって、現実世界の見え方は大きく変わってくる。
モノやサービスを交換しあう交換経済。
見返りを求めずに捧げ合う贈与経済。
利子や利息といった架空の数字の増減によって市場が動いていく金融経済。
銀行家や資本家の思想や政治的方針によって市場が動いていく資本主義経済。
新自由主義という思想の元に、グローバル企業および企業群の力が国家の境界線を超えて及んでいくグローバル経済およびコーポラティズム。
地域の中で生産と流通を循環させていくことを意図したローカル経済。
生産や加工に携わる者とそれを購入する者との関係性を見直すフェアトレード的経済。
経済のあり方はその根底に流れる考え方、つまり人と人、人と環境のつながり方についての価値観を大きく反映させていて、そのあり方はどこまでも多様であり、その可能性は無限であると言える.

(実利を伴う理念としての三宅商店)

お任せ民主主義を脱却して、自分達のライフスタイルや思想をそのままに、政治に関わっていくことができるという提案を投げかけたとも言える三宅の立候補宣言。
誰かが作った経済に乗っかったままに、経済のあり方そのものをお任せしてきた現状を変えていく為に、経済そのものを否定したり批判するのでなく、自分達のライフスタイルや思想を反映させた新しい経済のあり方を模索、実践する取り組みを自分たちで進めていく。
 
その実践の場のひとつが三宅商店という存在なのだと、僕は認識している。
非暴力・不服従の思想を掲げてインドを独立に導いたマハトマ・ガンジーは、イギリスの東インド会社がインド社会の中に入り込んでいき、インド人のライフスタイルを大きく変え、結果として政治や経済のあり方そのものをイギリス式に変容させていった歴史をこう語っている。
 
「インドのイギリス化(近代化・機械化)はイギリスの侵略によるものではなく、インドがイギリス化していく事を従順に受け入れたインド人自身が引き起こした結果である」
国内の農家が育てた綿花は格安な金額でイギリスの企業に買い取られ、マンチェスターの紡績工場で大量生産された機械製の衣服を同じインドの都市生活者たちが買う。
手で糸を紡ぎ、手で布を織り、手で縫製した国産の衣服は、イギリス製のそれに価格競争で叶うわけもなく、手仕事の技術や伝統および雇用の機会は、都会の消費者の手によって潰されていった。
 
生活者(生産者および消費者)が自分達の思想や価値観を問うことをやめてしまう事で、生産と消費の現場は大企業による莫大な資本投入によって行われる、コマーシャリズムとマーケティングに横たわる思想や価値観に飲み込まれていってしまう。
たとえば消費者の意識に「流行りに乗り遅れたくない」といった気持ちが植えつけられると、必要ないものまで買ってしまうことが往々にしてある。
「とにかくなるべく安く買わなければ」という強迫観念が植え付けられると、安価な大量生産品を買い続け、必要のないものまで生産せざるを得ない状況を支えてしまう事もあるし、原料を作る生産者に十分な対価が支払われないアンフェアな関係を作ってしまうこともある。
何かを安く買い叩くという事は、それを作る者の暮らしを安く買い叩くという事につながる。
必要以上の生産を必要以上のスピードで続ける上に成り立つ大量生産品を買い続けるという事は、結果として自分達自身を、過剰な量のものを過剰なスピードで作る仕事に従事させ続けることにつながっていく。

(働くとは「ハタ(周囲)をラクにする」こと)

競争や対立やプレッシャーではなく、共存や共生や調和を意図した経済。
大地の恵みに感謝して、生産や加工に携わる人たちの暮らしに敬意を払うような経済。<br> その気持ちの現れとして対価を支払っていくようなお金の循環。
お金を「消して費やす=消費する」のではなく、相手に対して投資する、エンパワーするような経済を作っていくこと。
「隣人を楽にする=ハタをラクにする」を語源に持つ本当の”働き”に対して、感謝の現れとしての金銭の交換をしていくこと。
 
前述のガンジー氏の言葉の奥には「自分たちの引き起こした現実なのだから、自分たちの手で変えていくことができる」という前向きなメッセージが宿っているように感じる。
 
この日本列島は、たくさんの大陸(プレート)が交差し、たくさんの潮の流れが交差する文化と文明の交差点でもあった。
世界中から集まってくる多種多様な人々の思想、価値観のそれぞれをよく理解し、受け入れ、時には翻訳者、通訳者、仲人のような形で間を取り持ってきた人たちによるマーケットとメディア。
 
今でいうところのマルシェのような場は列島の各地に点在していて、海の民と山の民はそこで交流を重ねてきた。
海の幸、山の幸、川の幸、里の幸、それぞれの環境から生み出されたモノやサービスの価値を理解しあう事で成立していた多様性フェアトレード的な交易文化。
 
海の民が炊いた塩を受け取った山の民は味噌や醤油を仕込み、その一部を海の民に還元していく。山の民から受け取った穀物や野菜の種を海の民は船に乗せ、その栽培技術を各地に広めていく。
競争や対立ではなく、お互いを生かし合うことを意図したような経済のあり方は可能であるということを民族的な歴史が実証している。
ものやサービスを交換しあう為のマーケットと、それらの価値を伝えるメディア。
 
この二つを自ら立ち上げていくことで新しい経済のあり方を実践する動きは、多くの地域で同時多発的に起こり続け、活性化し続けているように感じる。
経済の行き詰まりを訴える報道も少なくないが、今、行き詰まりを迎えている経済が「すべての種類の経済」であるわけではなく、ある種の形態の経済が行き詰まりを迎えている一方で、新たな芽生えを向かえた経済や、静かに育ち続けている経済の存在もまた事実だ。

(行き詰まる経済と芽生える経済)

具体的にはたとえば、ある農村で暮らす三児の母が作るオーガニック保湿クリームが、地元で開催されるオーガニックマルシェや三宅商店といったマーケットの存在のおかげで月に30本販売することが可能になり、そのおかげで彼女は毎月の家賃をまかなうことができている。
彼女は稼いだお金で大量消費するわけではなく、生活に必要な分だけ稼いだら、後の時間はハーブやメディカルについての学びや探求を深めるために使っていたりする。
そうやって深めた学びが商品の質をさらに高めていき、その商品を受け取る人たちの健康がさらに促進されたりする。
そういうことが各地で起こっている。
「買い手が作り手を支えている」と言うと、自分で作れないものを作ってもらっている者としておこがましいという気もするが、お金を支払う事が具体的に作り手の仕事や暮らしに何らかのプラスをもたらしているという実感は、「経済の質を変えていきたい」と願う自分たち自身を勇気付ける働きを持っているということは事実だろう。
 
購買という行為が、何かを手に入れるだけでなく何かをエンパワーする役割を持っているという実感の積み重ねは、「消費者」という、ともすれば罪悪感をも伴うアイデンティティをぬぐい去る事にもつながっていくかもしれない。
経済の行き詰まりが叫ばれる昨今ではあるが、ここでいう経済とは「すべての種類の経済」を指しているわけではなく、現代社会およびそれを支えてきた私たちが受け入れてきた、数ある経済の形態のうちの一つが行き詰りつつあるということでもあるのではないだろうか。
と同時に、ひとりひとりの選択、仕事、価値観、ひとつひとつのものに宿るエネルギーに対して感謝と敬意でつながりあい、お互いを育てあっていくような、生き物のような経済がすでに生まれ育っているという実感も確かなものになってきている。
そして、今まで長く続いてきた経済のあり方がもし変化していくとしたら、その流れは段階的なものであり、ゆるやかなものでもあり、その変化を支えるものは一極に集まる巨大なパワーではなく、それぞれの暮らしの中で起こる小さな変化の積み重ねのようなものなのではないかと思う。
 
僕はこの1月から三宅商店で取り扱う品物の背後にある物語や価値を伝える役割を担っていくことになった。経済のあり方を変えていく実践の場としての三宅商店に関わりながら、大切な仕事のひとつひとつ、そこから生み出される大切なもののひとつひとつ、それらと共にある暮らしのひとつひとつが感謝と敬意によってつながっていく、そんな経済を地道に育んでいく、その一端を担えたらうれしい。

                BY YUKA TAKAHASHI · 2015年1月14日 

9歳で学校を自主退学。
13歳でインターン。教育界に革命を起こす少年の名は、ローガン・ラプラントくん。
個人の「幸せ」を生み出すためではなく、「”社会で働くことができる人間”を育てる」
そんな「個人を尊重しない」現在の教育システムに嫌気が差した少年は、学校を9歳で退学。自らの教育システム「ハック・スクーリング(hack-schooling)」を生み出しました。
 

現在の教育は「子供のクリエイティビティーを殺している」

ローガンくんが編み出した「ハック・スクーリング」は、私たちがイメージする「学校教育」とはまるで異なります。
「ハック・スクーリング」では、カリキュラムが一切存在しません。
自分に必要な科目を自らで選択し、カリキュラムを組み、学んだことを即社会で実践してみる。そんな「”個”を尊重する教育」がハック・スクーリングなのだそうです。
 
彼のTED Talkを見れば、このハック・スクーリングが効果的な学習方法であることは明らかでしょう。
立ち振る舞い、思考力、プレゼンテーションスキル。
全てにおいて13歳レベルというよりも、中堅社会人、いやそれ以上のレベルです。
 
現在のアメリカでは、彼のように「子供のクリエイティビティーを奪う学校」を離れ、ホームスクーリング(自宅学習)を選択する子供が増えているようです。<br>そして、そんなローガンくんのような「勉強方法を自分で作り出す世代」を後押しするように、「世界最高峰の教育を無料で受講できる方法」がたくさん誕生しています。
 

賢くなる為にお金は不要。世界一の教育は無料で受ける時代

■Khan Academy(カーン・アカデミー)

「ワールドクラスの教育を、世界中の誰にでも無料で提供する」非営利団体
 

■Codeacademy(コード・アカデミー)

アメリカでは非エンジニアがこぞって利用する大人気サービスプログラミング言語の基本を無料で学べるこの画期的サービスは、政治学科に在籍していた大学生によって作られた!
 

■edX(エド・エックス)

世界有数の名門大学、MITとハーバード大学の共同事業として始まったオンライン教育プラットフォーム、3校目として、カリフォルニア大学バークレー校(UCバークレー)が加わっている。
 

■TED Ed(テッド・エド)

TED Talkから誕生したオンライン教育システム、親しみやすくわかりやすいアニメ風の動画が多く、誰もが楽しみながら学ぶことができるサービスになっている。
 
学校教育に価値はあるのか?
(Photo by Celeste Hodges)(Photo by Celeste Hodges)
一流の大学。世界的に有名なクリエイターやエンジニア。世界の第一線で活躍する人々が、オンライン上で「先生」として登場するようになった現代。
教室に座った生徒たちが、「たった一人の先生から授業を受ける時代」は終わったのかもしれません。
これからは、「”個人”が自分にぴったりの学習方法を選択する時代」そんな方法が一般化していくのかもしれません。
子供たち一人一人には、それぞれ最適な学習方法があるそうです。
イギリスの小学校低学年では、視覚・聴覚・体を使った様々なアプローチの学習方法を試すことで、子供一人一人に最適な教育法を見極めるそうですが、日本はどうでしょうか?
成績が伸びないと、塾に入れられ、学習時間だけが増えていく・・・。そんな子供も多いのではないでしょうか?
一人一人の能力を最大限に引き出すためには、一方的に教育を押し付けるのではなく、個性を重んじる必要がありそうです。
「個性を重んじる教育」のために、「学校をやめてオンライン教育に切り替える」。そんな選択肢もあるのではないでしょうか?

まず限られた離島の生活の「お金」や「ローカル過疎地」について同じ思考だなぁ~と。
今のGreensLifeスタイルの最も大事なお金についてわかりやすいブログがあったので紹介します。
 
●お金を目的にしてしまうと、どこに住もうが、何をしようが同じ会社勤めに疲れてしまい、自然の中で農業をしながらゆっくり暮らしたいと、田舎に移住してくる人は多いそうです。ところが、野菜を作ってのんびり暮らすはずが、多くの収益を得たいばかりに、朝から晩まで収穫作業に追われることに。
お金のために働くのであれば、都会でサラリーマンしていたほうがマシだったのでは?と嘆く人も多いそうです。結局「お金」を目的にしてしまうと、どこに住もうが、何をしようが同じなのです。多くのお金を手に入れるために、疲弊してしまいます。本末転倒です。
 
●お金は腐らないならば、お金を目的にせず、好きなことをして暮らせば良いということになります。とはいえ、人間は食べないと生きていけませんので、畑で野菜を作ったり、鶏を飼ったりして、食べ物を確保する必要があります。
自分が好きなことを周りにしてあげることで、見返りに周りから食べ物を貰えるというエコシステムがあれば、自分で食べ物を作らなくても、暮らすことが可能です。
例えば絵が得意ならば、絵を教えたり、看板を書いたり、家族画を書いてあげたりして、食べ物を貰うような仕組みです。しかし、食べ物はたくさんもらっても時間が経つと腐ってしまいます。漬物にしたり干したりして保存しても、限定的です。結局、お金で貰ったほうが効率的です。
お金は腐らないので、貯めておくことができるからです。お金が貰えなくなった時に備えて、お金をたくさん稼いで貯めようとします。そして、お金を介すようになると、話は振り出しに戻ってしまいます。
 
●お金への依存度を減らす現代社会で生きていくには、田舎に住んでも最低限のキャッシュは必要です。
海外の発展途上国の山奥に住んでいる原住民も、街で農作物を売ったりしてキャッシュを稼いでいます。
お金から離れて暮らすことは現実的には不可能です。
とはいえ、お金だけに依存してしまうと、企業勤めと同じになってしまいます。
お金への依存を減らし、お金の呪縛からある程度開放された生活環境をつくるには、どうしたら良いでしょうか?
 
●斜面の畑野菜を育てるスキルと喜びを持つお金が無くても、自分で食べ物を作れれば、生きていけます。野菜を育てるスキルを身につけておくことは、人生へのヘッジになります。
苗を買ってきて植えて育てるのではなく、種子から育てるスキルを身につけましょう。
種は一袋100円から買えます。
畑がなくても、ベランダのプランターで野菜を育てることも可能です。
自分が植えた野菜が育っていく様子を観察するのは楽しいです。
野菜の栽培に喜びを感じられれば、人生が潤うでしょう。
 
●好きなことを職業にする会社勤めはもう嫌だ。
であれば、最後の手段は「好きなことを職業にする」しかありません。
ニッチなジャンルで、地域ではまったく商売にならなくても、インターネットを利用すれば全国を商圏にできます。
周りに1-2人しか興味を持ってくれる人が居なくても、全国なら1,000人以上の人が興味を持ってくれるかもしれません。
一日中ゲームをしたいという方は、ゲームが上手くなるコツをブログで紹介して広告収入を狙う。
ジョギングの好きな人は、オリジナルのトレーニング法を電子書籍やDVDにまとめて格安で販売する。方法は色々あります。田舎暮らしで家賃を抑え、野菜の栽培で食費費を減らせば、不可能では無いと思います。
 
●お金のかからない趣味を持つ「人生は結局暇つぶし」という言葉があるように、お金がかからない趣味を持つことで、お金をかけずに一日を過ごせます。上記の家庭菜園やジョギングは、お金があまりかからない趣味にもなります。
ただ趣味と職業が同じになってしまうと、気の休まる時がありません。別の趣味を持つのもよいでしょう。
後輩は「お金を介す生活」に疑問を感じて、地域のコミュニティを利用したお金がかからないエコシステムの整備を目指しているそうです。
 

「自然農園ビヨンド」興味がある方はぜひアクセスしてみてください。

移住から2年目に突入・・・・
この島に基幹産業はほとんどなく、管理委託事業の過疎離島
島の経済は、行政主体の経済となっており、いくら地域の自立を促しても助成金頼りなのが現実。
基本的にこれからを考えた場合、行政主導の政策的な事業はいかがなものか?
地元で炭鉱閉鎖あと、島の産品作りなど過去に行ってきたようだが、税金を使わない限り、そんな無茶な事業は個人では出来なかったんでしょうね。
またそういう島に対して愛情と言うか、島の事業者が投資をしてこなかったのも問題。
 
自からが痛みを感じるようなものじゃない委託事業
行政と一緒になり甘えた事業展開、黒字化を目指すようなものでもなければ、赤字を減らす訳でもない。
意見を言っても、できない言い訳が多すぎて・・・・。
人口減少や若者がいないなど、わかっていることを逃げ道にしているように感じ、その対策など後回しの悪循環。
将来を考えて島の一部の人間の収入確保が現実だ「島の雇用のために」はとってつけた言い訳に過ぎない。
人がどんどんいなくなっているのだから、歯止めなど効くわけもなく、雇用主が島の知り合いで委託事業者ゆえ苦情も言えず、陰口ばかりである。
 
離島をいいことに、収入は増やさず、独り者の若者は生活もままならず結婚すら出来ない経済状況。
また最後の一人になっても自分は残るなどと言っている高齢の方がいるが、最後の一人にはならんでしょう(苦笑)

助成金を使ったさまざまな失敗

普通の感覚なら、リサーチして商品開発するかどうか決めますが、最初から助成金ありきの商品開発でスタートしている案件がある。
「助成金が取れたから・・・」
「島になにか新しいものが欲しい」
「作ったら売ればいい」
今はこんなにモノが溢れて売れない時代に、島の生活もままならない、そしてまた環境も整っていない島で、安直な考えで作ったものが売れるわけがない。
 
商品が出来たとしても立案者任せ、結局販売ルートは無い、独自助成金イベントで販売か、県や市主催の物産展しか出せないだろう。
助成金の半分は給与と聞いている・・・・話にならないね。
役人が主導の企画など島民に魅力的には感じない。
思いがあればなんとか出来るほど商売も島の環境も甘くない。
ましてや生活を確保された役人思考では商売はできませんよ、島のためにもならず失敗という税金の無駄使い。
全国の自治体の成功事例を持ち込んで成功すると思っているのかもしれないが、地域を正しく理解しなければいけない。
島・離島・少子高齢化・人口減少など抱える問題はたくさんあるが、それは地域にあった解決策が必要であり、他の過疎などと同じように考え、成功事例など持ち込んでもどうでしょうか?
この島の過去の歴史は素晴らしい、観光資源や自然環境をまずは整備するところから始まる。
中途半端な観光地化など、観光客を怒らせるだけで評価を下げることにつながる。
他の島の成功例など参考にならない、この島独自の下り坂の環境があるためだ。<br>なにより人がいない、増やそうとしても策も努力もなしでは致命的
もっともはなから真面目に取り組んでいるのは担当者だけ。
役所の上は別に企画や事業が成功しようがしまいが、彼らの給与は影響ないし、なにかしらの仕事をしていればいい役所。
「無駄使いだけども、やらないよりはマシ」の思考が島のためにならないのです。
農水省の補助をもってきたところで、人材は居ない、給与安い、産業としての定着も難しい。
でも仮に成功しなくても何もしないよりはマシなので、とりあえず仕事を作ってるだけ。
それに担当も2年や3年で異動、誰も責任は取らない、という体質は役所の基本だからね。

地域のパワーバランスの談合

利権ある個人が行政とつながっていることが、島民参加が出来ない、させない弊害
行政が商売のド素人である一方で、島の経済人はどうかというと、市場経済が末期の離島、まともに機能しない過疎化。
民間に任せたくても地元企業に受け皿がない、ド素人が組合立ち上げたりしながら引き受け、赤字営業を続けている。
島の経済は、競争ではなく、ゆるく談合が基本です、談合していかないと島の経済が潰れるとおもっている一部の人間。
公共事業、小規模工事から、委託管理契約、老朽化著しい道路や建物の保守、浄化槽の維持にいたるまで、役所の島への委託業ってたくさんあって、それだけ地域の会社や組合が連携している。
だから、島で仕事ができる人というのは、役所に顔がきく、島の人材確保のとりまとめができるといった、もはや商売人というよりも、政治的な動き方です。
新しい移住者へ仕事など回ってきても時間給のアルバイトそれもスポット的に使われる。
新しく事業をと思っても、口先だけ協力だが、自分たちの利権にまつわる場所に触れないように阻害し事前に防波堤を張り巡らす。

島では金はもらってくるもの

利益誘導、従来の利益保護の事業が結局、島には必要なんですね。
地方における、主要産業は、役所、漁協、船会社、郵便局、病院、振興組合、ごく一部の土建屋。
これらの共通点は、全て稼ぐというよりも、規制や、補助金といった税金で成り立つ産業であること。
企業誘致なども見込めない島、自分たちで産業振興しようにも少子高齢化や人口減少若手がいないなか、島の未来へ見通しが立たない。
今後も島への利益誘導に期待するしかないと思っている地域の権力者じゃ、しょーもないような気がします。<
なんども言いますが、島に来た役人に産業は作れません、投資をしない島の事業者も産業は無理でしょう。
役人が一生懸命仕事をすればするほど、島の産業は国や行政に依存を強めて弱体化していく。
現在の島への補助金と規制による環境を見れば明らかです。
これが地方過疎地限界集落の現実。
日本は資本主義が限界にきており徐々に衰退していくでしょう、地方はもう限界に来ているという厳しい現実があります。
島の一部の人間のための活性化を基本としているようでは、まだまだ本気で島への移住を言えないのが本音なのです。
このままじゃ加速度的な衰退は確実、早くて3年後には行政から島は切り捨てられ、ますます島民には不便が待っている。
不便を不便と思わず、行政や国に頼らず、ローカルとして島の支え合いを根本にした地域づくりにシフトしなければいけないと思うね。
過去の炭鉱時代を知っているものならば、このままじゃ無理は理解してるでしょう。
根本的な経済の考えや思考が間違っているからです。
現在の島の経済に従事する方々は根本的に見えていないので無策としか言いようがない。
根本的な土台を変えずに先延ばしでどんどん苦しくなっていくだけ。<過去の日本経済のシステムがすでに崩壊へと歩んでいることに気がつくといいですね。島への愛をお金に換算しているようでは活性化なんて無理、まずは今島で暮らす方々が幸せを感じることが大切
商売やっている方々も島民あっての事業であるという現実に感謝し、役所は必要以上に関与せず、島民自らが動きだすようにサポートすべきであり、先頭を走ってはいけないのである。

ボブ・ムーアヘッド牧師の詩
※これは、アメリカのコメディアン ジョージ・カーリンが彼の最愛の妻を亡くしたときに、ボブ・ムーアヘッド牧師の説教を引用し、友人に送ったメールの一部抜粋です。
【この時代に生きる 私たちの矛盾】
ビルは高くなったが人の気は短くなり
高速道路は広くなったが視野は狭くなり
お金を使ってはいるが得る物は少なく
たくさん物を買ってはいても楽しみは少なくなっている
家は大きくなったが家庭は小さくなり
より便利になったが時間は前よりもなく
高い学歴をもっていても感性は貧しく
知識は増えても決断することは少ない
専門家は大勢いるが問題は増えている
薬も増えたが健康状態は悪くなるばかり
飲みすぎ吸いすぎで浪費し
笑うことは少なく
猛スピードで運転し
すぐ怒り
夜更かしをしすぎて起きた時は疲れている
読むことはまれでテレビは長く見るが祈ることは稀である
持ち物は増えているが自分の価値は下がるばかり
饒舌ではあるが愛することは稀である
それどころか憎むことが多すぎる

私は人生の最初の頃、農家として生計を立てるために田畑で働いてきました。
 
その後、変化を求めて苦戦している人たちのために自分の人生を捧げました。私の住む社会の生活をよりよいものにするためにです。
 
私は今では大統領です。
 
そして明日には、他の皆と同じように朽ち果てて消えていくでしょう。
 
私はこれまで何度も敗北を味わいました。怪我もたくさんしましたし、刑務所内で数年を過ごしたこともあります。
 
世界を変えようとして決めて、毎日を過ごしました。
 
私が今もここにこうして生きているのは奇跡のようです。
 
そしてなによりも、私は人生を愛しています。
 
バーに入り、バーテンダーに「ここにいる皆さんに、私のおごりで一杯ごちそうしてください!」と言うような生き方を、人生という旅の最後にしたいものだと思っています。
 
私が目立っているのは、私の価値観や生き方が社会にいる実際の人たちを映し出しているからです。そして私は、自分がそこ(普通の人たち)に属していることを誇りに思っています。
 
そしてそこに必死にしがみついているのです!大統領だからいっても、関係のないことです。これまでこのことについて何度も考えてきました。
 
私は10年近くを世捨て人として過ごしました。考える時間は充分にありました・・・7年間は本も一冊も読まずに過ごしたのです。
 
そのおかげで考える時間を持つことができました。
 
その時に私は、ほとんどものを持たず余計な荷物全部に拘束されない幸せな人は、幸せは頭の中にあることを知っている人で、そうでない人はどこに行っても幸せを手にすることができない、ということに気がつきました。
 
何も貧困を提唱しているわけではありません。
 
私が提唱しているのは、真面目に生きることです。
 
しかし私たちが消費者文明をを作り出してからというもの、経済は常に成長し続けなければならなくなりました。
 
経済が成長しない場合は、それは悲劇なのです。私たちは山のように必要のないニーズを作り出しました。
 
新しいモノを買って、古いモノを捨てる・・・
 
それは私たちの人生を無駄遣いしていることになるのですが!
 
あなたが何かを買う時、そのモノのために支払っているのはお金ではありません。あなたが差し出しているのは、そのお金を稼ぐためにあなたが費やした人生の数時間で支払っているのです。
 
しかしお金では買うことのできないモノの一つが人生である、というところが違っています。
 
人生は短くなる一方です。
 
そして自分の人生や自由を新しいモノを買うために無駄遣いするというのはみじめなことです。
 
ウルグアイは小さな国で、大統領専用のジェット機はありません。
 
私たちは専用ジェット機を持っているかどうかなど、あまり気にしないのです。
 
ウルグアイはフランスから非常に高価なヘリコプターを購入することに決めました。人里離れた地域に待機させるための、手術設備のあるレスキュー用のヘリコプターです。
 
大統領専用機を買う代わりに、事故の被害者を救出するため、そして移動中に緊急用医療サービスを提供する目的でウルグアイの中央に配置するためのヘリコプターを買いました。
こんな簡単なことなのです!
 
このジレンマがおわかりになりますか?
大統領専用ジェットか、レスキュー用ヘリコプターか?
 
問題はいつも、そこに落ち着くのです。
私には真面目に生きているかどうかの質問に思えます。
 
何も私は洞窟やわら小屋の暮らしに戻ろうと言っているのではありません。まったくそんなことはないのです。そういう意味ではありません。
 
私が提唱しているのは、必要のないモノのためにリソースを無駄遣いを止めようということです。例えば維持するために6人の使用人が必要な豪邸を買うことなどです。
 
そんなものの何がいいのでしょうか?何によいのでしょうか?
 
そういったモノは全部、必要ありません。
 
私たちはもっと謙虚に生きることができます。
 
国のリソースを、国の全員にとって本当に大事なモノのために使うことができます。
 
これこそが本当の意味での民主主義なのですが、政治家はこの意味を忘れてしまっています。
 
民主主義が王冠、あるいは狩猟に行く時に道化師がトランペットを吹いてくれるような封建領主を意味するのでしょうか?
 
もし民主主義がそういう意味であれば、私たちは古代に生きているのと同じです。
 
なぜ私たちは平等やそういった概念の名前の下に革命を起こしたのでしょうか?
 
大統領が豪邸持っているということは、つまり私たちが未だに封建社会に生きていることを意味しているのです。
 
私がドイツに行った際、エスコートとしてBMWのバイク25台をつけた上で、私をメルセデス・ベンツに乗せました。そのドアは外装のために3トンもの重さがあったのですよ。
 
そんなものの何がいいのでしょうか?
 
私はつつましい男です。差し出されたものを受け取るだけです。私にはそれで充分です。
しかしそれでも私は自分の考えを言わざるをえません。
 
不足しているのはリソースではありません。統治能力なのです。
 
政府の政治家は次の選挙で勝つことや、誰がボスになるかということしか考えていません。
 
私たち政治家は権力のための戦いに夢中になるあまりに、人々や世界の問題について忘れてしまいます。危機は環境の問題ではなく、政治的な問題です。
 
私たちの文明は地球全体の総意が必要となる時期に入っていますが、私たちはそれから目を逸らしています。
 
狂信的な愛国主義や優位な立場への渇望によって盲目になっています。最も有力な大国は特に。彼らこそが見本を示すべきなのですが!
 
京都議定書から25年経ちましたが、私たちが未だに基本的な対策も取らずに問題を長期化させているのは残念なことです。恥知らずなことです。
 
人間は、自己破壊の能力のある唯一の動物なのかもしれません。私たちが直面しているジレンマはここにあります。私はむしろ、自分が間違っていたらよいとさえ思います。
 
人間はその性質上、楽な生活よりは苦しい生活からもっと学べるようにできています。
 
だからといって、苦難を探し求めることなどを勧めているわけではありません。私が望んでいるのは、人々に理解してもらうことです。
 
あなたはいつでも、再び立ち上がることができます。どんな時でも、またゼロの地点からやり直す価値があります。
 
一回でも、あるいは1000回でも、あなたがまだ生きている間はやり直すことができます。
それが人生で最大の学びです。
 
言い方を変えれば、あなたの戦いにギブアップするまではあなたは負けたことにはならないということです。
 
あなたの夢を諦める時、ご自身の戦いにギブアップしたことになります。
 
戦うこと、夢を見ること、地に足をつけた生き方をすること、現実に直面すること。
そういったことこそが、私たちの選ぶ生き方の存在に意味を与えます。
 
あなたが恨みを抱いている場合、本当の意味で人生を生きていることにはなりません。
同じところを回っていては人生を生きることができません。
 
私が人生で経験した深い悲しみは決して癒えることはないでしょう。人生をやり直すことなんて、誰にもできないのです。
 
自分の傷を片付けて、未来に向かって進み続ければなりません。
 
もし私が自分の古傷を舐め続けることに時間を費やしている場合、前に進んでいることにはならなりません。
 
私は人生を自分の目の前にある道として考えています。
 
大事なのは明日です。
 
「過去は覚えておかなければならない。さもなければ同じ過去を繰り返して非難されるだろう」
これは古くからある言葉です。私も何度も言われましたし、警告されたこともあります。
 
私は人間とは何か知っています!
 
自分の足先を、同じ小石に20回もぶつけてしまう唯一の動物なのです!
 
それぞれの世代は経験から学びますが、他者からは学びません。
 
私は何も人類を理想化しているわけではありません。
 
他の誰かの経験から何が学べるでしょうか?
 
私たちは自分自身が経験したことからしか学べないのです。
 
ともかく、これが私の人生に対する考え方です。
 
確定的な真実などは持ち合わせていませんが。
 
(翻訳終了)
 
【ホセ・ムヒカ氏の簡単な経歴】
 
ホセ・ムヒカ氏の簡単な経歴 
1935年、バスク系ウルグアイ人として貧しい家庭に生まれ、家畜の手伝いなどで実家を助ける。
 
1960年、極左都市ゲリラ組織ツパマロスに加入。ゲリラ活動に従事し、活動を通して計6発の銃弾を受け、4度逮捕される(うち2回は脱獄)。
 
1972年に逮捕され、軍事政権が終わるまでの13年近くを刑務所内で過ごす。
 
出所後はゲリラ仲間と左派政治団体を結成し 、1995年 下院議員選挙で初当選する。
 
2005年に初入閣し、2009年には大統領の座に。
 
同性結婚、大麻、(妊娠初期)の中絶を合法化させる。
 
(画像 http://www.democraticunderground.com/101648088 米国が後援していたウルグアイの軍事政権が拷問を横行させ、それに反対して13年間投獄されていた元大統領)
 
 
 
(画像 写真左が1985年に刑務所から出所した直後のムヒカ氏  https://newrepublic.com )
 
ムヒカの個人資産は、愛車のフォルクスワーゲン・ビートルとトラクター、農地、自宅のみ。大統領公邸には住まずに、首都郊外の質素な住居に暮していることから「世界で一番貧しい大統領」というあだ名がつけられる。
 

2016-02-14 08:34:38 

マトリックスの統治システムが崩壊し始めているのは、真実追求者が勝ってきている証拠

The Control-Matrix is Crashing because the Truth-Seekers are Winning

2月7日【The Mind Unleashed】
より翻訳
 Phillip J. Watt著

 大衆の世界観は茶番劇のようです。

マスコミの視点は騙すことを意図したものか、あるいは完全に重要なポイントを外しています。影響力があり、私たちが信じるべきであるはずの人間たちでさえ、買収されているか、あるいは単に事実について何も知らないだけです。
 
しかし沈んだ気分になる必要はありません。なぜなら長きに渡り人類の集合的な考え方を形作ってきた誤ったストーリーに対し、真実追求者らが取り組んでいるために、コントロールのマトリックスが崩壊してきているからです。
 
もちろん、場所や人種、文化や信念形態を超えて情報の共有を展開するために最高のメカニズムであるインターネットを褒め称えることもできるでしょう。そして今では権力者でもこれからはそうでなくなる者たちは、過去を思い返し、インターネットの誕生と発達以前に策定していた人類に対する狡猾な計画のためにもっと力を注がなかったことに対し悔やんでいることでしょう。
 
しかし勘違いはしないで下さい。彼らは多くの分野で多大な成功を治めています。次のような世界について考えてみてください。
 
・本物のニュースを伝えるジャーナリストがほとんどいない
 
・体調不良の原因やそれを正統に治す方法を本当に理解している医師がほとんどいない
 
・政治家の多くが通貨の供給や、それをコントロールしている者のアジェンダを理解していない
 
・いわゆる専門家の科学者らの多くは、独善的な宗教に似通った誤った哲学を「信じて」いる
 
・教師の大部分は、子供たちに教えられるべき情報や批判的思考法からはまったく程遠い植え付け(洗脳)を体系的に教えていることに気がついていない
 
・大衆は大事なことを知らされていないだけでなく、分断され、些細で重要でない点についてお互いに夢中になって争いあっているが、これまで概念化された最も雄大で敬虔な現実の中にいながらも、夢遊病者のように歩き続けている

私たちの世界へようこそ。

21世紀と呼ばれる時代になりましたが、人間の健康や活力を楽にするために作り出されるべきシステムのすべては、嘘や欺まん、機能障害、不調和によって乗っ取られています。
私たちの知性や倫理的な許容限度を下回るこのシステムは私たち人類にとっては恥であり、さらに私たちの社会を組織化し、効率的に利用する方法など、人類の改善という避けられない過程の中でも信頼感を失う必要はない、と考えるのは難しいことではありません。
その理由とは?それはこのような機能障害のすべてが、人類の心や頭の中に起こっている集合体としての目覚めにとって、効率のよい原動力となっているからです。
 
目覚めた人が増え続け、私たち全員が自分自身の、精神やシステム的な現実に付随し、真実に基づいた意見に到達する機会があることに気がつき始めている、というのは心が動かされるような事実です。
 
より深い真実とつながった情報は大手メディアの中には見つけ出すことはできないので、マスコミのニュースはさほど深刻に受け止めるべきではない、ということを以前よりもずっと多くの人間が理解しています。また個人的にどの立場を選び、何のために闘うのか、そして私たちの子供や将来の世代のために何を残せるかについて、私たちが選択権を持っているということも理解してきています。
 
しかしコントロールのマトリックスから脱出した後には、いくつかの深刻な課題に直面するということにはご注意ください。
 
私たちが平和に暮らせることを確実にする哲学を作り出すこと、あるいは自由を取り返し、人類にとって正当で誇れる未来を作り出す探求の旅の中で忍耐力を発揮することなど、私たちは各自の内面で取り組む必要のある課題がたくさんあります。
 
だからこそ長い間、私たちの世界の多くの機能障害に気がつき、特にその中でも平和と忍耐を学んでいない人たちに対して同情しなければならないのです。彼らは次のことが起こるのを目の前にゆっくりと目撃してきたのですから。
 
 

・軍事産業・メディア・政治屋・銀行からなる複合体が、世界中で力を増やし、略奪行為を続けている

 

・独占状態の製薬企業が私たちの社会を薬漬にし、自らの利益を最大限にするために私たちを病気のままにし続けている

 

・オキュパイ運動のような社会運動が起こっても、非難を受けて分解されるだけにすぎない

 

・科学が企業による機構に成り下がり、さらに現実に対する不正確で了見が狭い哲学によってハイジャックされている

 

・戦争は、影の帝国の思いつきによって意図的に作り出されたもので、何百万人もを殺害している

 

・過激派は、崩壊しつつある権力構造のために汚れ仕事をするための代理の敵になるよう仕向けられている

 

・意図的に、空気や薬、食品、水がより毒性の強いものにされている

 

・政府の政策が、企業やエリート層の利益によって決定される割合が増している

 

・世界中で警察が軍隊化している

 

・教育モデルが、洗脳システムとしての側面を弱めようとしても、苦戦している

 

・世界政府の樹立というアジェンダの実現に近づいてきている

 
私たちは、このような情報の多くを何十年もの間知っていた一部の人たちがよき戦いを続けたことに対して称賛するべきでしょう。
 
彼らは失望しそうな展開を目撃したことがあるかもしれませんし、恐ろしそうなことも多かったと思いますが、彼らは、プロパガンダの作り話から解放され、人類の進化の次のステージとなるシステム・精神の方向性に向かった何百万人もの人たちを目撃もしているのです。
 
要するに、私たちは忍耐強く励む必要があるがあるのですが、それでもこれまでに私たちが達成した業績を認識し、祝うべきだということです。
 
私の以前の記事、「古いシステムが崩壊する中で、新しいシステムが構築されている(Whilst the Old System Crashes a New One is Being Built、英語)」の中では、次のような人たちが存在していることについて説明がありました。
 

・ケインズ派モデルを正統な代替手段に変換させることを希望する経済学者

 

・学校教育と呼ばれる洗脳システムには巨大な穴が開いていることを理解している教師

 

・エネルギー生成の手段を進化させ、共有することを希望する科学者

 

・力学的、薬理学的医薬品の限界を感じ、自然で植物ベースのセラピーの再導入の必要性を理解しているヘルスケア関係の従事者

 

・メディアの寡占状態が解体されることを求めるジャーナリスト

 

・食べ物の栽培、流通方法の移行を求める環境問題研究家

 

・地元社会のメンバーに対するよりよいサポートを復旧することを目指しているリーダー

 

・民主主義が利益によって乗っ取られたことを理解している政治家

 

・私たちの価値システムの中での革命を求めて運動する活動家

 

・社会的健康・福利のためのシステム上のテンプレートを変化させることを望む未来派主義者

 
私たちの社会を、宇宙の自然の法則と同調するように再設計しようと先頭に立って導いている美しい魂を持った人たちがたくさんいます。どのような方法で貢献するかは個人的に決めるとしても、私たちも彼らの一人になるべきでしょう。
 
そうするためには私たちはみな、自分が何を信じ、自分が変化を望むものを自分自身の中で非常に明確にする必要があります。その方法は数多くありますので、自分の情熱と強みを探すことこそが、このシフトの中の自分の小さな役割を果たすために必要不可欠です。
 
私たちはシステムの奴隷であるかどうかを問わず、砂の中に頭を突っ込んで知らないふりをすることはこれ以上、受け入れることができなくなっています。
 
コントロールする側の通路からリソースが入るシステムから完全に切り離されることは難しいことはもちろんですが、だからといってその問題について話し合ったり、情報をネットでシェアすることは大事ですし、そして人類が新しい豊かさのパラダイムに移行することを目的として地元や世界レベルの運動に、どれだけ小さくてもよいので貢献することを止める必要はありません。最終的に、真実とはありのままの状態であり、私たち全員の間から力強く流れ出すことで世界に真実はその姿をさらしているのですから。
 
また結局のところ、ゾンビによる世界の終わりはすでに起きていますので、それを待つ必要もありません。ほとんどの人はよい人たちなのですが、それでも大衆としては真実からはほど遠いように考えるように洗脳されています。
 
彼らは、意識的な社会が構築される転換期の間も夢遊病者のように歩いているかもしれませんが、だからといって救いようがないというわけではありません。
 
私たちは集合体としての人類の目覚めを手助けし、私たちみんなが誇れるような正義と名誉のある未来を本当に実現するためにお互いにさらに力づけあい、情報を提供する責任を負っているのはそういう理由からです。
 

それを実現するためにアドバイスをさせてください。

どうか他人に対してイライラしないで失礼な言動は避け、軽視や非難はしないでください。私たちはみんな、どこかの時点では目覚める必要がありますので、そういった行動をすると偽善的になります。
 
かわりに穏やかでクールに、そして現実的で雄弁になってください。自分が主張する情報について、手のひらに書いてあるかのように、熟知してください。他人が誤った考えに直面できるように手助けをしたいのであれば、相手が真実を受け入れる際によりオープンで受け入れやすい状態を作るためにも、相手の防衛機制をあげさせることは避ける必要があるためです。
 

最後にもう一言。

みなさん、くじけないで忍耐強くいてください。まだこれからも長く困難な道が続いていますが、あらゆる努力はどのようなものでも行う価値があるということを忘れないようにしてください。

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